所沢埋蔵文化財調査センター見学

4月16日
●所沢埋葬文化財調査センター全景

●「古代~中世にかけての所沢市内の主な遺跡分布」~私たちのグループワークで訪ねる場所を中心に表示しています。~

●旧石器時代
旧石器時代には、竪穴住居、土器、弓矢は発見されていない。この時代の人々は木の実が取れる林、水場、獲物が立ち寄りそうな場所を移動しながら生活を送っていた。

←旧石器時代の各種石器(砂川遺跡ほか)


三ヶ島の砂川遺跡で発見されたナイフ形遺跡(約20000年前)は動物を捕獲するための槍の先端部分に付けられたと考えられる。


←ナイフ形石器(砂川遺跡)



●縄文時代
縄文時代は、竪穴住居やお墓をもつ集落で定住生活を送っていた。定住生活が出来るようになった理由は、土器の発明により植物を保存したり、調理が出来るようになり、食べ物に困らなくなったことによる。
←縄文式土器(白旗塚・西上遺跡ほか)


所沢市は縄文時代の遺跡が全体の半分以上占めている。その殆どが、5000~4000年前のもの。この時期の土器には人の顔、動物をはじめ様々な文様が付けられている。おそらく自然に対する祈りの気持ちが表現されたと考えられる。


←ふくろう(和田遺跡) 



 
←縄文時代の装飾品
   (海谷遺跡ほか)





弥生時代
朝鮮半島から九州へ稲作が伝わる。米作りは、水と土地を求めて争いを引き起こした。また、首長と農民と云う身分の差が生まれた。

←弥生式土器(東の上遺跡)




所沢市に稲作が伝わるのは、弥生時代終わり近くの2世紀頃。湿田と云う、湧き水によって出来た湿地を利用した稲作である。市内で水田跡そのものの発見はないが、東の上遺跡や宮前遺跡では住居の跡や首長層のお墓である方形周溝墓が発見されている。
●古墳時代
この時代、所沢市には集落の営みはあるものの、大規模な古墳はない。古墳時代7世紀になって海谷遺跡・山下後遺跡・村中遺跡・膳棚遺跡で10~15mの小規模な円墳が発見されているのみ。
これは古墳周辺の集落を支配した長のお墓と考えられる。この時期には台地斜面に横穴をくり抜いた横穴墓も滝の城・北秋津で確認されている。

← 勾玉・小玉ほか(海谷遺跡)



←古墳時代の遺物(滝の城横穴墓群ほか)

生活面においても弥生式土器の流れをもつ土師器と、中国・朝鮮半島からもたらされた須恵器を使い分けている。住居の中では縄文・弥生時代から続いた炉に変り「かまど」が造られている。これにより料理も「煮る」ことから「蒸す」ことへと変化していった。


●奈良・平安時代
大化の改新以来、法律や税制が整備され、天皇を中心とした中央集権的な国家が作られるようになった。日本全国は60の国に分けられ地方にも中央の権力が及ぶようになった。都と地方は大きな道で結ばれ、その一つが東山道武蔵路である。

東の上遺跡では幅12mの直線道路が100mにわたって発見されている。さらに東の上遺跡では約300軒の住居跡が発見され、何らかの公共施設のもと大集落が営まれていたことが分かっている。この公共施設については現在2つの説がある。
①駅家(うまや):上級役人が乗り継ぐ馬や、休憩・宿泊などを備えた施設
②郡衙(ぐんが):税を集める現在の市役所のような施設

 ←東山道武蔵路跡(東の遺跡)





←金属製品
(東の上遺跡)






                                                     師器・須恵器→
                                                     (東の上遺跡)
 

【ここに掲載されている写真・文書は、すべて「所沢市埋蔵文化財調査センター」の資料から抜粋しています。】

【交通アクセス】
西武池袋線小手指駅南口バス停2番から早稲田大学行バスに乗車し、「誓詞橋」または「所沢ロイヤル病院前」下車 徒歩3分