東の上遺跡(所沢市民大学2年次グループ・ワーク)

1.位置(所沢市大字久米)
所沢台の南縁に連なる遺跡の一つである。

南を流れる柳瀬川は県立所沢高校下付近で北東に向けていた流れを南東に変え弧を描くようにして再び北東に向きを変えていく。柳瀬川左岸に特有の急崖もこの付近では消滅し、なだらかな斜面となって沖積面にうつる。東の上遺跡は、この柳瀬川中流域左岸の東西約1㎞南北約400mの範囲で、東は主要地方道東京・所沢線付近まで、北は行政道路から南は台地縁辺部までを指している。
2.発掘調査
これまで計85回に及ぶ発掘調査が実施された。広範囲に広がる遺跡であるから、いくつかの時代、いくつかの性格の異なる遺跡が同居する複合遺跡であり、これまでに、縄文時代、弥生時代、奈良・平安時代の遺構・遺物が発見されている。
3.遺構と遺物
●縄文時代
昭和50年5月の第1次調査で敷石住居跡1軒、55年4月の第5次調査で土壙1、56年6月の第6次調査で同じく土壙1が発見されている。敷石住居跡からは深鉢形土器、打製石器、凹石が出土している。これらは極めて少量であるが、一応加曾利EⅣ式期の範疇に入ると思われる。
●弥生時代:
市立南稜中学校の校舎増改築工事が決定され、校庭西側のテニスコート部分に発掘調査の必要性が生じたため、昭和52年4月から6月の2ヶ月間にわたり市教育委員会が実施した。
竪穴住居跡13軒は隅丸長方形(右写真参照)。
その他、掘立柱建物跡、溝など。
土器群の組成は、壷形土器、甕形土器、台付甕形土器、高杯形土器。
集落は、広場を中心に環状に配置されていた。
●奈良・平安時代
昭和50年より現在までに85回の発掘調査が行われている。これにより、当遺跡は主に奈良・平安時代を中心とした大規模な集落跡であることが分かった。これまでに発見された遺構は、竪穴住居跡300軒、掘立柱建物跡85棟、道路遺構2条が発見されている。特に重要なものとして南稜中学校校庭で約100mにわたって発見された幅12mの直線道路跡が上げられる。(左写真参照)
この道路跡は7世紀中頃に建設された官道の一つである「東山道武蔵路」と考えられており、主にこの道路跡周辺から住居跡や米を蓄えるための倉庫(掘立柱建物跡)などが多数発見されている。
また、これらの遺構からは、馬具、馬の歯、炭化米、墨書土器、火打石、金環、丸鞆のほか、表面に具注暦、裏面に馬の戯画が描かれた漆紙文書など、一般の集落では見られない遺物が出土している。
これらのことから、東の上遺跡は武蔵路に置かれた駅家(ウマヤ)を中心とする集落ではないかと考えられている。しかし、これを裏付ける文字資料は現在のところ発見されていない。しかし、奈良・平安時代の集落が成立した時期は武蔵路開通とほぼ同時期と考えられており、集落の成立と武蔵路は密接な関係があると云える。

奈良・平安時代の遺構分布には道路跡の東西で様子が異なっていることが明らかになった。道路跡の東側は大型住居跡や掘立柱建物跡が集中し、西側は比較的小型の住居跡が分布する傾向が見られる。
・駅家(ウマヤ):国司などの上級役人が乗り継ぐ馬や宿泊施設を備えた建物・役所。
・炭化米(タンカマイ):火災によって焼けた米。
・墨書土器(ボクショドキ):墨で文字や記号が書かれた土器。。
・金環(キンカン):金メッキされた耳飾。
・丸鞆(マルトモ):金属製のベルト飾り。形の違いで地位の高さが分かる。
・具注暦(グチュウレキ):吉兆などが書かれた暦
・漆紙文書(ウルシガミモンジョ):漆を入れる容器の蓋に転用された使用済みの文書・用紙。漆が付着しているため腐らず、書かれた内容が保存されやすい。(右写真参照)

【以下は『所沢市史』を参考にしてまとめたが、当文献資料は第25回までの発掘調査資料である。】

◆奈良・平安時代の東の上遺跡は8世紀前半頃に完成されたと考えられる。
個々の住居構造は整然とした方形の平面プランで4か所の柱穴を配置している。(右図参照)
北側の壁体には共通してカマドがあり、カマド右側には貯蔵穴が付設されている。面積は25~36㎡である。
掘立柱跡は3間×3間の規模で柱穴間を溝で連絡する類例のない構築である。
この頃の土器のうち、甕形土器類は縦ヘラ削りの長胴甕や口縁部が「く」の字状に外反し胴部が薄身化する現象が認められる。須恵器は杯形土器類の出土を見ることが出来る。またこの頃の特徴を示す赤彩の盤状杯が存在する。

◆8世紀後半になると、竪穴住居跡の分布は8世紀前半頃よりも密になる。
個々の住居構造は正方形プランから若干の変化が見え始める。コーナー部分が丸みを持ち長方形のものも認められ、規模も16~20㎡と小型化している。
柱穴は不規則な配列になり、カマドは北壁の他に東壁のものも認められる。貯蔵穴の付設は少なくなっている。土師器杯類は殆ど姿を消し、そのかわりに須恵器の杯形土器となる。

◆9世紀前半は東の遺跡の衰退期といえる。
個々の住居構造は不整形なプランを描くものが多く、掘り方自体も浅く、カマドの方向性など統一性がなくなる。面積は14~20㎡である。
甕形土器の「く」の字状の外反は弱まり、次の段階の「コ」の字状の外反へつながる形態を示している。須恵器杯形土器は周辺部回転ヘラ調整痕の杯形土器も一部に存在するが、新たな糸切り痕のみの無調整杯が認められる。

◆9世紀後半になると竪穴住居跡は集落の中でも台地縁辺に点在する傾向が認められる。住居跡の平面プランは長方形、台形など様々である。カマドは長辺の壁側に認められる。
甕形土器類は「コ」の字状の外反に発展する段階を示している。須恵器は底部から直線的な立ち上がりの逆台形状になっている。