旧町を歩く(所沢市民大学2年次のグループ・ワーク)

6月21日(土)晴れ
13時に所沢駅西口に集合し、プロペ通りを歩く。土曜日の午後とあって歩くのも儘にならない程の混雑である。
ダイエー所沢店の前を左折して暫く行くと、入り口に「求友館」と書かれた2階建ての家に出る。現在は元町東町内会が管理している同町公民館になっている。
●求友館
明治10年代には自由民権運動が全国的に高まり、所沢でも斎藤与惣次、向山忠次郎、斎藤源左衛門らが中心となり、政談演説会が開催された。
明治21年10月に所沢町内に「求友会」という組織が結成され、会合所として「求友館」建築され、勝海舟が求友会のメンバーである斎藤与惣次の求めに応じて揮毫したとのこと。



●斎藤家
銀座通りに面したところに斎藤家がある。周りは高層マンションに囲まれて、うっかりすると見過ごしてしまう。
所沢の中でも、今に残る数少ない店蔵の家屋である。建築年代は江戸末期と云われている。斎藤家には、幕末から明治にかけての政治家・勝海舟、幕臣で剣客の山岡鉄舟、幕臣で槍術家の高橋泥舟(『幕末の三舟』)の寄せ書きした一幅の掛け軸や海舟書の掛け軸など貴重な品々がある。
また、明治16年に東京から飯能に行幸した途中、行きと帰りの2回、明治天皇が当家に宿泊されたことでも有名である。所沢市御幸町と云う町名はこの時の行幸に由来しているそうだ。
現在、銀座通りに面した店蔵部分の一角で市のボランティアの人達が交代で所沢市の歴史を紹介している。偶然、中に入り、ボランティアの三上さんから色々と所沢の話を伺うことが出来た。
●實蔵院
旧鎌倉街道上道に隣接する真言宗豊山派の寺。山号は野老山(所沢の古い名称と云われている)。文永年間(1264~1274)【鎌倉時代】の創建と伝えられているが、宝暦3年と文政7年の2度の大火で、古文書、縁起類などのすべてが焼失したため確認することができない。
戦前供出した古半鐘には、正平7年(1352)【南北朝時代】に新田義興によって開基されたとの銘があったそうだ。
現在の本堂は、嘉永3年(1850)に再建され、本尊は大日如来、同本尊の脇侍として、聖観世音菩薩が安置されている。
参道では江戸時代から続く伝統の三八市が現在も開かれている。墓地には大正時代の女流歌人三ヶ島葭子の墓がある。
旧鎌倉街道を北に進むと昭和初期の光景を漂わせる駄菓子があったのだが、今は取り壊されて真新しい住宅になっている。私たちが育った昭和と云う時代も一つ一つと消えてゆくのだろう。
●新光寺
旧鎌倉街道に隣接する真義真言宗の寺。根来山系の真言宗を真義と云うそうだ。本尊は十一面観音で行基の作と伝えられている。鎌倉時代の創建と云われ、「吾妻鏡」には建久4年(1193)に源頼朝が那須野での狩りの際に当寺で休息をとったことが記されている。
新田義貞が鎌倉幕府北条氏との戦いに勝利することを当寺で祈願し、その後、勝利凱旋の帰途、黒塗りの鞍と、かって当寺が奪われた土地を寄進したことが伝えられている。
また、聖護院門跡道興准后の紀行文「廻国雑記」の中に、文明18年(1486)所沢(野老沢)に遊覧したときに当寺で詠んだ「野遊びの さかなに山の いもそえて ほりもとめたる 野老沢かな」が記されている。
旧鎌倉街道に出ると右手に神明社の西参道の入り口が見える。
●神明社
神明社は所沢の総鎮守で祭神は天照大神です。当社がいつ建てられたか不明だが、伊勢神宮が勧請された社で神殿は神明造りである。境内の一番低い所に十殿権現と云う蔵造りの社がある。「武蔵野話」には西参道の鳥居が見られ、「江戸名所図絵」(下図)には神明社と十殿権現の社と表参道の鳥居が見られる。



●薬王寺

曹洞宗の寺。始めは臨済宗であったが、後に曹洞宗に改宗、久米の永源寺の末寺に属す。新田義貞の子、義宗は足利尊氏と戦って敗れ、ここで再起を図ったが果たせず、この地で亡くなったといわれている。室町時代初期に創建。当初は自性院と呼ばれていた。当寺は永禄10年(1567)8月吉日(室町時代)に修理した銘のある薬師如来を本尊としている。
江戸時代に入ると、この辺一帯は尾張家の鷹場となり、当寺に御殿を建て宿泊したと云われている。薬王寺の伽藍が雄大なことは「江戸名所図絵」や「武蔵野話」にも描かれている。
義宗公死後に、この地方に鼠が大発生して農作物や穀物を食い荒らし、人々は新田家主従の戦死者の怨霊だと恐れ、義宗公守本尊の薬師如来に願いを掛けると鼠の害はやんだと伝えられている。そのことから当寺は「鼠薬師」とも呼ばれるようになった。
薬王寺には所沢市指定文化財の高麗版大智度論がある。また「新田義宗終焉之地」の碑や江戸時代末期の女流俳人、三上里恵(野遊亭理恵)の次の句碑「むさし野に 埒なく老いし 柳かな」がある。この野遊亭は道興准后の詠んだ「野遊びのさかなに山のいもそえて・・・」にちなんでいるそうだ。
●井筒屋と秋田家
井筒屋は屋号。明治38年に建てられた2階建て出桁(だしげた)の造り。正面は全ての部材を銅版で覆い、東西の外壁は塗屋造り。所沢を代表する綿糸商だ。店の横を通って奥に続く敷地内の路地に面して門が建っている。門は「腕木門」で屋根は切り妻の瓦葺、箕甲(みのこう)、風切丸、飾り棟をつけている、品の良い門である。門扉には秋田家の家紋が浮彫りされていて、手が込んでいる。門に続く塀は腰長押を取り付け、これより下を下見板、上を格子の風窓を入れた漆喰壁で仕上げ、屋根瓦との間には透かしをとっている。塀は斜めに下がり波打って見えるが、これは、東川に向かって地面が低くなっていて、その地形に沿って造られたからである。
●港屋質店
明治33年に建てられた2階建ての店蔵の造りである。外観は軒を3重の蛇腹と出桁(だしげた)で飾り、窓には観音開きの土戸を設けている。下屋は垂木を黒漆喰で塗りこめ、両脇に立派な戸袋を配している。
内部の造作は、全てケヤキ造りで、ひときわ目に付く2尺×1尺の人見梁や箱階段、鉤の手に造られた戸棚などが大変立派だそうだ。門はケヤキ造りで瓦葺の立派な「腕木門」である。


●坂稲荷神社
社殿は現在は土蔵造りの中にある。
社殿の唐戸の白狐図2面・脇障子の牡丹図2面・板壁の鯉ノ滝登図2面・腰はめ板の唐獅子牡丹図1面の計7面が社殿装飾絵として所沢市指定文化財に指定されている。筆者は江戸時代後期に活躍した所沢出身の絵師三上文筌である。(「所沢市教育委員会の社前の掲示」より)
ここの稲荷神社の前にいる狐はちょっと変っている。両脇の狐とも子狐を連れている。親狐に寄り添う子狐と、子狐を見守る親狐、微笑ましい光景だ。きっと、何か云われがあるのだろう。