勢揃い橋~東の上遺跡~鳩峰八幡宮~八国山・将軍塚(所沢市民大学2年次グループ・ワーク)

6月7日(土)13時所沢駅西口集合
今年は例年より早く梅雨入りした。今日は、梅雨の中休み。スタート地点は「勢揃い橋」。所沢駅西口から西武園行きのバスに乗り勢揃い橋バス停までは7~8分である。
●勢揃い橋
柳ヶ瀬川に架かる橋で、何の変哲ももない小さな橋だ。新田義貞が鎌倉攻めの時に軍勢を勢揃いした場所だと伝えられている。が、地元南住吉町に住んでいる高木さんの情報によると事実は違うそうだ。
旧名は友平橋と云ったが、昭和8年(1933)に建武中興600年祭に記念行事として新田義貞旗上げの地、群馬県新田郡の生品神社から鎌倉まで、故柴田常恵氏、稲村坦元氏ら一行が歩いた折に「勢揃い橋」となったとのこと。(ちょっと、残念!!)
勢揃い橋から最初に向かったのが長久寺である。長久寺前を北から南に向う車道は旧鎌倉街道である。
●長久寺
長久寺は時宗の寺で、本尊は秘仏の善光寺式阿弥陀三尊である。開山は玖阿上人といい、現在東村山の徳蔵寺にある「元弘の板碑」を建てた人といわれている。鎌倉時代末期創建。境内には、市指定有形文化財の「廻国供養塔」や「金銅造阿弥陀三尊立像」、「六地蔵」がある。六地蔵とは、仏教の六道輪廻の思想で、全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すと云われ、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたそうだ。六地蔵の個々の名称については、地獄道(檀陀(だんだ)地蔵)、餓鬼道(宝珠地蔵)、畜生道(宝印地蔵)、修羅道(持地地蔵)、人道(除蓋障(じょがいしょう)地蔵)、天道(日光地蔵)と云う。
長久寺を後に旧鎌倉街道を北に行き、すぐに西に折れると南稜中学校に出る。この辺り一帯が東の上遺跡である。南稜中学校の東側のフェンスに東山道武蔵路の写真と遺跡の案内が掲示されている。この場所は車の往来も多く、遺跡の案内板を読んでなんかいられない。

●東の遺跡と東山道武蔵路
東の上遺跡は久米地区から南住吉地区の広範囲に広がる遺跡である。これまでに、縄文時代、弥生時代、奈良・平安時代の遺構・遺物が発見されているが、興味を引くのは、奈良・平安時代に造られた東山道武蔵路とその時代の住居跡を始めとする遺構である。発掘調査が長期間に亘っているためか、すべてを明らかにした資料が入手できなかったのが残念だ。また、今回歩いて分かったのだが、南稜中学校付近の丘陵地帯から八国山に向けては、住宅やアパートが立ち並び、昔の地形すら想像できない。
南稜中学校から南側斜面を下り柳瀬川を渡り久米水天宮に向かう。久米水天宮は小高い丘の上にある。その西隣にあるのが鳩峰八幡宮である。この付近の低地一帯は「大谷たんぼ」と云われた水田が広がっていたそうだ。しかし、今ではその景観は失われてしまい、所沢きっての高級住宅街になっている。私が、所沢に引越してきた昭和44年頃は葦が茂る湿地帯で、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」を連想させるような風景だったのを思い出した。
●久米水天宮
安徳天皇を祀る。安産・繁栄の神。毎月月5日は水天宮祭が行われ、今でも多くの参詣客や出店で賑わっている。






●鳩峰八幡宮
平安時代に創建されたという。京都にある男山八幡宮から神霊を勧請したもの。祭神は誉田別命(ホンタワケノミコト)で、源氏が八幡を守り神としたことから、古来より武門による信仰が篤い。神社の名前の由来は、鳩が八幡神のお使いとされることによる。境内には新田義貞の鎌倉攻めに関わる伝承が多く、義貞が兜を掛けたという「兜掛けの松」、鎧を置いた跡という鎧稲荷神社などがある。石灯篭を両脇に参道は長く、杉の木立に覆われ昼間でも薄暗い。途中に鐘楼があり、誰でもが鐘を突くことができる。
●佛眼寺
佛眼寺は真言宗豊山派の寺。鎌倉時代初期創建
時間の都合で山門近くの石造物のみを拝観した。法華経千部供養塔は延享三年(1746)に造立されている。駒形の庚申塔は一面六臂青面金剛立像が鮮明に浮き彫りされている寛政元年(1789)造立。二十三夜待供養と刻まれている文字塔は、市内唯一のものと見られ、貴重である。文政三年(1820)の造立。
佛眼寺を後に松ヶ丘の住宅街を斜めに横切り八国山に向かう。
山沿いに道を東に歩いて行くと悲田処跡公園に出る。       
●悲田処跡公園
悲田処というのは、奈良時代に旅人の苦しみを助けるため建てられた施設のこと。「続日本紀」にその記事が見られる。以前はこの公園の場所が悲田処の跡と考えられていたが、その後の調査でほぼ違うと分かってきたそうだ。
本日の目的地の八国山に着いた。尾根道にはクヌギやコナラの木々が茂っている。クヌギやコナラは湿気の多い場所を好み尾根などには自生しないそうだ。多分、江戸時代に人為的に移植されたのではないかとのことである。そう云えば、この付近は元々は常緑広葉樹林だったものを、江戸時代に幕府の政策の一環として落葉広葉樹の木を植林したと聞いたことがある。
●八国山
八国山は狭山丘陵の東の端である。
丘の上には将軍塚がある。将軍塚の名は、新田義貞が鎌倉幕府打倒の戦いの時に、ここに陣を張ったという伝説に由来している。(富士塚、古墳、狼煙台跡などの説もある)その脇の「青石塔婆所在之跡」は、この場所に「元弘の板碑」とも呼ばれる青石塔婆の板状の碑が建っていたと云うことを伝えている。「元弘の板碑」には合戦の戦死者を供養する内容が刻まれ、現在は東村山市の 徳蔵寺 に保管されている。
また、「新編武蔵風土記稿」によると、「山の高さ十丈餘、山上より眺望すれば駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃八国の山々見ゆる故に此名ありと云う。されど今は樹木繁茂して眺望をさゝゆる故、名に聞へしほどの景色とも覚えず。此に一つの塚あり、是を将軍塚と呼ぶ、或いは富士塚とも云う。塚上に纔の平地ありて浅間の小社あり、此の塚を将軍塚と云ことは、土人の傳へには、元弘の亂に新田義貞此塚上に旗を立てゝ、床几を居し故に起こり名と云う、今按に土人の説もうけかひがたし。」とある。

帰りは、「将軍塚」からバスに乗り所沢駅に向かった。