明治大学考古学博物館と神田界隈を歩く

◯明治大学考古学博物館 ~砂川遺跡出土品をみる~
以前、所沢市埋蔵文化財調査センターでみた、「砂川型刃器技法」と呼ばれるナイフ形石器の製作工程を復元した原石は写真であった。実物の原石を見られるのは、この博物館のみある。
復元された原石は大人の握り拳くらいの大きさである。想像していたものよりも小さかった。
説明には、「整理作業を通して、各ブロックに残されていた石器、剥片、石核を丹念に接合した結果、石器製作の作業工程などが具体的に把握されました。石核から少しづつ石片が剥がされていった過程が復元され、ブロックを残していった集団の姿が浮き彫りにされたのです。石器のなかには、他所の遺跡から持ち込まれたらしい石器と砂川遺跡で作られながら行方知れずで、別の遺跡に持ち出されたらしい石器の存在も明らかになりました。
克明な記録と整理方法により、旧石器時代人の動きを読みとった砂川遺跡の研究は、その後の旧石器時代研究を推進する指針とされました。」と記してあった。
また、「砂川遺跡での石器接合などにもとづく詳細な遺跡研究から、旧石器時代の生活は、一つの遺跡では成り立たず、集団が移動することで幾つかの遺跡がつながって、一つのムラが構えられていたことが分かった。」と記している。(明治大学考古学博物館資料より)
砂川遺跡が考古学上で果たした役割は大変大きいが、それを丹念に調査し報告書として纏め上げた明治大学の功績はそれ以上に大きいことを痛感させられた。
明治大学から「山の上ホテル」の前を通り抜け、更に「大久保彦左衛門屋敷跡」の碑を右手に見て「ニコライ堂」に向かった。
◯ニコライ堂
正しくは、東京復活大聖堂教会で、ギリシャ正教とよばれる正教会です。
ハリストス(イエスのギリシャ語読み)の復活を記念した聖堂。ロシアから正教伝道のために来日し、日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライが建立にあたったことから「ニコライ堂」の名で知られています。

関東大震災で甚大な被害を被ったが、一部外観と内装に変更を加え1929年再建されました。
1983年に国の重要文化財に指定されています。
正教会とは、
中東・ギリシャ・東欧を中心に、初代教会から伝統を受け継いできた教会です。ギリシャ、アナトリア、パレスチナ、シリア、エジプトをはじめとした東地中海地域を支配していた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が正教会の主な庇護者となりました。各地域の正教会は、現代のロシア正教会・ブルガリア正教会・ギリシャ正教会・ルーマニア正教会など、各国ごとの正教会に成長してこんにちに至っています。
◯湯島聖堂
湯島聖堂(ゆしませいどう)は、1690年(元禄3年)5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟です。寛政異学の禁により、1797年(寛政9年)幕府直轄の昌平坂学問所となりました。または「昌平黌」(しょうへいこう)とも云います。昌平とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって孔子の諸説、儒学を教える学校の名前とし、それはその地の地名にもなったそうです。
湯島聖堂(昌平黌)は江戸時代、学問・教育の総本山となりました。ここには多くの人材が集まりましたが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に閉鎖されました。
明治のはじめに、文部省・東京国立博物館の前進もここに置かれ、近代教育発祥の地となり、1922年(大正11年)には国の史跡に指定されています。
湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間を通して合格祈願のために、多くの受験生が訪れます。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられます。
◯神田明神
正式名称は神田神社です。
東京の中心―神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場―、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれています。
今日、1月12日は「寒中禊」の日であり、氏子が冷水を浴びている姿が朝のニュースで報じられていました。また、だいこく祭も行われていたためか境内は大変賑わっていました。
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀しました。
戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行いました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けています。
◯湯島天満宮(湯島天神)
湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)は、通称湯島天神です。
古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っています。受験シーズンには、合格祈願のために、多数の受験生が参拝に訪れますが、普段から学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せています。また、境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」は、知っている人も多いと思います。
社伝によると、御宇(ぎょう)2年(458年)1月、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられています。南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀しました。この時をもって正式な創建とする説もありますが、当の湯島天満宮では458年創建としています。
徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けました。その後、多くの学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石などの名があります。明治5年に郷社に列し、明治18年に府社に昇格しました。平成13年(2001年)に神社本庁の別表神社に指定されました。
本殿の建築様式は権現造です。かつての社殿は明治18年に改築されたものですが、老朽化が進んだために平成7年(1995年)12月に再建されました。平成12年(2000年)3月31日に「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称しました。
◯旧岩崎邸庭園
三菱財閥三代目社長、岩崎久弥が茅町本邸として用いた屋敷のうち、洋館・撞球室・和館の3棟が現存しています。洋館は英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので1896年(明治29年)建築です。

木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。

別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。
洋館と結合された和館(施行:大河喜十郎)は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。

越後高田藩・榊原氏の大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
1961年に洋館と撞球室が重要文化財に指定。1969年に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、1999年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。

(当園資料より抜粋)