永源寺~ドレミの丘~荒幡富士~山口城址を歩く


2月14日土曜日。晴れ、気温も上昇し4月下旬から5月上旬の気候となった
午後1時30分西所沢駅前集合。西所沢駅から永源寺に向かう途中、西武線の線路沿いに約300㍍歩いたところに山下後遺跡がある。大字山口山下後22番地に所在する。先土器時代、縄文時代および古墳時代の複合遺跡で、標高70㍍の所沢台緑地に位置する。今では住宅地となっており、その面影はまったくない。
南は緩やかに傾斜し、眼下には過って西武グループが分譲した「春の台団地」の家々の屋根が並び、その先に柳瀬川が流れている。晴れた日の朝夕には富士山の雄姿を望むことができる。
所沢高校の西門の脇から、急な階段を下ると「つり堀」に突き当たる。道を左に曲がると、永源寺の正門に出る。境内には、いくつかのお年寄りグループがいた。雪割草を見にきたのであろう。しかし、雪割草はまだ咲いていなかった。その代わりに福寿草が咲いていた。
◯永源寺
曹洞宗大龍山永源寺と云う。何度も戦乱で焼けており資料がない。室町時代・応永年間(1400年頃)に大石遠江守信重公が雪心禅師のために創建したと云われている。大石氏は室町幕府の関東管領上杉氏の家臣である。
近年、当寺は雪割草の名所としても知られている。

***主な見所***
・大石信重の墓:本堂裏の石段を上がった高台の歴代住職の墓域に武蔵国主譜代大石信重公の墓はがある。(所沢市の指定文化財)
・お地蔵様:門の脇、道路に面した命子育て地蔵尊。特に子育てにご利益があるという。
・庚申塚:門の内側、お地蔵様の裏手にある青面金剛明王(庚申様)。悪霊や災難を除き、幸福をもたらす明王として広く信仰されている。安永2年(1773年)に多くの講中の皆さんにより建立された。
・弁天様:道路を隔てた山門斜め向かいにある。室町末期頃、永源寺の仏法を守るものとして作られたといわれている。昔は相当賑やかであったようだが、幕末の頃竜が天に上がってしまい、それからは火が消えたようになってしまったとのこと。弁天様のご神体は本堂に移され安置されており、毎年冬至の日には星祭の行事が行われている。
・雪割草:花は彼岸のころ見頃を迎える。

永源寺の正門を出て南に向かうこと7~8分で吾妻公民館に着く。ここでトイレ休憩。

妻公民館の駐車場を横切り南側の道路に出ると、目の前が第五文化幼稚園の森である。丁度、第五文化幼稚園からの道と交わる路傍に「二十三夜待塔」が立っている。

この「二十三夜待塔」に画かれている仏顔は馬頭観音の憤怒の様相をしている。「二十三夜待塔」にこのような顔が画かれているのはとても珍しいそうだ。【写真左】



「荒幡バーベキュー」の裏側の道を通り抜け荒幡小学校の体育館を左手にし半周し反対側に出る。暫くすると目の前が開ける。そこが、ドレミの丘公園である。

◯ドレミの丘公園
ドレミの丘公園と書かれた石碑と水道があるだけで他は何もない自然の地形を生かした丘である。この公園は、(故)関口芳信氏が所沢市に土地を寄贈し、市が公園整備したものだそうだ。 開園は2006年5月24日なので新しい公園である。地元では、以前からこの地を「ドレミの丘」と呼んで親しんでいたので、名前はそのまま引き継いだとのこと。
丘の上に立つと左手に椿峰団地その隣には三井団地が見える。右手に目をそらすと、市内の高層ビルが一望できる。広々とした静かな場所である。

ドレミの丘公園から荒幡富士に向かう途中に鳩の羽が散乱していた。オオタカが鳩を食べた跡だそうだ。
今までの文書も、門内さんの説明をもとに記述している。その門内さんが「この辺りが所沢でも数少なくなった里山の原形を留めているところです。」と云った。後に山を背負い、前に畑を耕し、落ち葉を集めた堆肥場を畑に繋がる道の脇に備えている。昭和中頃までの日本の田舎の風景がこんなところに残っていた。感激である!!
間もなく荒幡富士に着いた。
◯荒幡富士
標高119.0㍍。明治17年に村民が、今迄ばらばらだった人心を一つにしようと、 農閑期をみて、土を盛り、16年、延べ1万人を動員して、築いた人工の富士山である。 地域ごとにあった村内の神社を一社に合祀し、山麓に浅間神社を建立、住民の信仰の中心とした。
富士山はむかしから人々の祈りの対象となっていて、順番にお参りできるようにお金を積み立てたり、また行けない人のために、近くに富士山のミニチュアを作ったりしていた。
この荒幡富士にも「富士山」と同じように、頂上までのジグザク道のまがり角には、「一合目」「二合目」とほられた石が本物の山さながらに立てられている。
山頂からの眺めは良く、秩父連山や新宿副都心の超高層ビルも眺めることが出来る。晴れた日には富士山も見えるはずだが、今日は4月下旬から5月上旬の気候とあって、靄がかかり残念ながら富士山を見ることは出来なかった。

荒幡富士から目と鼻の先に「いきものふれあいの里センター」がある。
館内を見ながらトイレ休憩をした。
その後、山口城址に向かって住宅地の中の道を歩いた。






◯山口城址
・山口城の歴史:
山口城は平安時代末期に武蔵七党村山党の村山家継によって築城された。家継は村山小七郎家継あるいは山口七郎家継と名乗り山口城に居住していた。以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側についたため、足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城した。その後永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、自害して果てたと云われている。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原合戦で敗戦。当城は廃城になった。
・現在の山口城址:
城郭は、東西200m、南北200mの規模を有したという。土塁が全周し、外側を空堀が巡る平城だったようだ。南側は柳瀬川が流れており南からの侵略に備えたのではないかと思われる。
現在は、土塁の一部を残すのみで、2000年12月から「ファッション市場サンキ」と云うお店が営業をしている。城址前の交差点の路傍に「山口城址」のたて看板が立っている。その脇には、選挙が近いためか、顔写真の付いた◯◯党衆議院議員候補のたて看板が立っていた。
帰り道で、地元議員候補らしい宣伝カーにすれ違った。音量を一杯にあげたスピーカーで「政党名」と「自分の名前」と「よろしくお願いします」だけを言って走り去って行った。
歩き終わって、みんなで飲むビールが美味い。やはり、冬だ。外に出るとさすが上着1枚では寒い。寒いときには酒に限ると、酒好き男5人して西所沢駅で下車し、熱い焼酎のお湯割で心と体を暖めて帰宅した。