八国山(将軍塚)~徳蔵寺~正福寺を歩く

昨夜から今朝にかけて日本海を低気圧が発達しながら北上し低気圧から伸びる寒冷前線が関東地方を通過するため、春の嵐を思わせるような暴風雨が吹き荒れていた。昼近くになっても雨は降り続いていた。
昼近くになり、リーダーの大河原さんから電話で予定通り実施する旨の連絡が入った。

13時30分所沢駅西口に集合した。メンバーはそれでも11名も集まった。雨は小降りになったが依然降り続いている。西武遊園地行きバスに乗り、「将軍塚」で下車し、そこから歩いた。バス停から 八国山 までは5~6分である。尾根に出ると正面の枯木の間から南稜中学が見える。東山道武蔵路が南稜中学の前からこの辺を横切って東村山に抜けていたと云うことが想像できる。
雨でぬかるんでいる尾根道を「将軍塚」に向かった。将軍塚のそばに「元弘青石塔婆所在跡」が建っている。現在、徳蔵寺板碑保存館に保管されている国指定重要文化財「元弘の板碑(元弘青石塔婆)」が建っていた場所とされている。

◯元弘の板碑(元弘青石塔婆)
中世の戦いには陣僧が加わり、陣僧は戦死者の菩薩を弔うため仏事供養を託されていた。この元弘の板碑は元弘3年5月15日、18日の合戦の場所と新田の将士、斎藤氏3名の討死者名が刻まれていて、戦史を実証している板碑として有名である。
本来、この「元弘の板碑」は八国山の中腹の「永春庵」にあったが、庵が徳蔵寺に移されたときに共に徳蔵寺に移されたそうだ。
国山を後にして久米川古戦場の碑に向かった。

◯久米川古戦場
1333年5月12日新田義貞の鎌倉攻めのときに鎌倉幕府軍との戦い。その後、1335年北条高時の遺子時行と足利尊氏の弟直義らの戦い。1352年の武蔵野合戦など幾多の戦いの舞台となった。古戦場の碑は八国山の東南に位置する住宅街の中の公園の一角にある。
傘を閉じると小雨が降り始める愚図ついた雲の下を徳蔵寺に向かった。


      ↑ 【 江戸名所図絵】1836年刊行
◯徳蔵寺
臨済宗大徳寺派に属し山号を福寿山と云う。開山は元和2年(1616)、璧英宗超禅師による。本尊は白衣観世音菩薩。

境内には徳蔵寺板碑保存館がある。




★徳蔵寺板碑保存館
1階:石器、土器、国分寺瓦、古銭などを展示
2階:元弘の板碑を中心に、板碑約170基、宝篋印塔、五輪塔、道標などを展示

元弘の板碑(元弘青石塔婆)」の実物(右図)(入館料200円)

正福寺千体地蔵堂に着くと急に雨脚が強くなった。午後から晴れる予報だったのに酷い降りになった。千体地蔵堂の屋根の雨粒がまるでビー玉のようにころころと跳ね上がり落ちてくる。よく観ると雹の粒であった。雨が止むと雲が切れ東の空に色鮮やかな虹が出た。二重の虹である。誰かが「虹が二本出るときは、上の虹と下の虹では色が対象的になるんです。」その通りになっている。私にとっては新発見である。

◯正福寺千体地蔵堂
臨済宗建長寺派の寺。鎌倉円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築の代表的遺構。東京都内唯一の国宝建造物。
鎌倉幕府執権北条時宗が鷹狩りの折、病になり夢枕に黄衣をまとった地蔵菩薩が現れ丸薬を授けた。これを飲み眠りから覚めると病が治り、これから地蔵尊を信仰して弘安元年(1278)地蔵堂を建てたと伝えられている。内部公開は9月24日、11月3日(地蔵まつり)

やっと、青空が現れた。弁財天の前をとおり東村山駅に向かった。

駅に着くと午後5時少し前であった。

【参考文献】東村山ふるさと歴史観発行「歴史館だより」