黄林閣から滝の城址を歩く

4月3日になり、やっと春らしい暖かな日になった。この日の散策は4月1日に予定していたが雨のために本日に延期された。その為か出席者は12名と少ない。
所沢駅東口から10時07分発の志木行きバスに乗り、「西側」と云うバス停で下車。約30分の行程である。道路左側に小高い森が見える。そこが黄林閣である。
着いてから分かったことだが、黄林閣は木曜日のみの開館である。今日は金曜日なので休館日だった。半分は諦めていたが、取り敢えず家の近くまで行って中を覗いて見ようと、道路脇の急な坂道を上り黄林閣の入り口に出た。車が止まっているので中に誰かいる。門には鍵が掛かっていない。扉を開け中に入ると管理人らしい人がいた。交渉の結果、庭から観るくらいなら良いとのことである。ありがたい!
◯柳瀬荘
昭和5年(1930)に松永安左エ門(茶号「耳庵」)の別荘として造られたもの。昭和23年(1948)3月に東京国立博物館に寄贈され、当館の所有となっている。敷地面積は17,235㍍。敷地内には「黄林閣」、「斜月亭」、「久木庵」を有する。





☆黄林閣(おうりんかく)
「柳瀬荘」の中心となる建物である。もともとは柳窪(東京都東久留米市)の村野家にあった住宅で、昭和5年に松永安左エ門が譲り受け移築したもの。同家は旧柳窪村の名主を勤めた家柄。名主の格に相応しい豪壮さを備えたこの建物は、保存も良く、棟札から天保15年(1844)に建てられたことが分かっている。間取りは、広い土間と床上部から出来ている。
正面には大戸と呼ばれる出入り口があり日常はこれを利用していたそうだ。土間にはコエンと呼ぶ床上への踏み台があり、続く勝手部分は広い板の間で中央に炉が切ってある。土間には大釜を据えるヘッツイがある。
2階に通ずる階段は箱階段になっているそうだ。上屋の平面は間口24㍍、奥行き11㍍、面積は292㎡ある。屋根は入母屋造りで使用した茅の量は6千駄と記録されている。このように、江戸時代後期の高度な建築技術が農家建築にも応用されている貴重な建物である。国指定重要文化財。
☆斜月亭
木造平屋建。瓦葺。数奇屋風書院造り。
松永安左エ門が、昭和13年から翌14年にかけて建築したもの。奈良東大寺や当麻寺などの古材を用いて造ったと云われている。
かって、近衛文麿公が老松にかかる月の美しさにひかれて「斜月」と命名し、扁額を掲げたと伝えられている。



☆久木庵
茶祖宗易(千利休)の孫、千宗旦が江戸時代初期に設計し、茶匠土岐二三が営んだものと伝えられている。近世になり茶人山本条太郎の所有であったものを譲り受け移築したもの。席は「二畳台目」の中柱のある構造で、杉の面皮柱、竿縁天井など簡単な茶室である。屋根は入母屋造り、元は茅葺であったが現在は鉄板で改修されている。
☆松永安左エ門(マツナガ ヤスザエモン)
明治8年(1875)12月1日-昭和46年(1971)6月16日
「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。
なお、慶応志木高の土地も1947年に松永安左エ門が寄贈したもの。
黄林閣を出てバス通り(県道所沢・青梅線)を所沢市街地方面に向かって歩く。
しばらくすると東光寺に着く。
◯東光寺
山号を医王山と称し、永禄7年(1564)他宗より曹洞宗に改宗。 堂宇は滝の城城主「北条氏照」によって城の東北に鬼門の鎮めとして建てられたものだそうだ。
城が廃城された後、慶長5年(1600)本寺である 永源寺 (所沢市久米)の七世「孝山大舜大和尚」(慶長19年寂)が開山。現在の所沢市坂之下に移されたもの。
当時、坂之下の18軒の家が18年かかって堂宇を建立したと言い伝えられている。御本尊の薬師如来は秘佛である。
境内には「金毘羅大王尊」が祀られており、毎月十日は縁日で「朝金毘羅」ともいわれ、朝早くお参りをすればするほどご利益があると言われている。
☆北条氏照
北条氏照(大石源三)は、戦国時代の武将。北条氏康の3男で北条氏政の弟である。
滝の城の城主。
東光寺を後に所沢市街地方面に向かって歩く。暫くすると東川に出る。東川の両岸の桜は今にも咲きそうだが、咲いているのはごく一部であった。
昼に近づくにつれ春の陽射しが強く感じられる。
セーターが邪魔になってきた。
県道所沢・青梅線上にあるバス停「城」付近から南に約5分ほど入った小高な丘が滝の城跡である。
◯滝の城址(埼玉県指定史跡)
☆現況:
総面積は約8万7千㎡、南に水田跡(現在は滝の城址公園)があり、25㍍の断崖に臨み本丸がある。それを囲むようにして北部に二の丸、三の丸、物見櫓跡、土塁、空堀が残っている。
往時は北の県道に沿って人家の間に外堀があり、東北に大手、東に城名ゆかりの滝があり、西北部に搦め手があり、小城ながらも要害堅固であったことが知られる。


【城山神社】
☆歴史:滝の城は台地の縁を利用した多郭式平山城である。築城者については諸説があるが、室町時代の初めに、入間・多摩十三郷を領有していた武蔵目代大石重信と云う説が有力である。
天文15年(1546)河越夜戦で大石定久が小田原の北条氏康に敗れたため、定久は氏康に降り、氏康の次男氏照を養子として迎え入れ家督を譲った。
依頼、滝の城は北条氏照の持城となった。
氏照はその後天正15年(1587)八王子城に移ったので、滝の城は八王子城と北関東を結ぶ重要な連絡時点となった。
しかし、天正18年(1590)7月小田原城落城後は関東一円が徳川家康の領国となり、滝の城は廃城となった。
私たちは空堀から二の丸付近をとおり丘の上に出た。頂上付近には「城山神社」があり、その斜め前には「滝の城本丸跡」と記した石碑が昔を偲ぶかのように建っている。神社の鳥居付近からは近隣の町が一望できる。鳥居の先は急な階段になっている。私たちは急な階段は避けて、三の丸から物見櫓の間を通り滝の城跡公園に出た。ここの桜は2~3分咲きといったところである。
桜の見える場所を陣取り、持参したビールと弁当にした。昼は既に過ぎていた。周りにお店がないと聞いていたので、家を出るときに詰め込んでおいたビールは一寸温くなっていたが、それでも歩いた後だけに美味い!!
【参考文献:城の滝跡保存会作成資料及び東光寺資料】