所沢の民話

1.桜淵地蔵尊のはなし(山口地区に伝わる悲しい話)
**あらすじ**
昔、山口の町屋にカネ善と云う紺屋がありました。職人も沢山いて店は大変繁盛していました。息子の吉之助は、同じ山口の新堀に住むおりんと結婚しました。おりんは「今小町」と呼ばれるほどの評判のよい娘でした。
おりんは朝早くから夜遅くまで、下女よりも酷く働かされ辛い毎日を送っていました。やがて、男の子が生まれました。
ところが、吉之助は家を外に遊び歩くし、両親は世継ぎが出来たのを喜びもせず、おりんに辛く当たりました。おりんは実家から妹のおくらを呼んで赤子の面倒を見てともらうことにしました。
ところが、この赤子は、夜になると決まって泣き出しました。ある晩、何時ものように泣き出した赤子に、カネ善の主人は「なんと云うことだ。外へたたき出せ」と怒鳴りつけました。
おくらは赤子を抱いて外へ飛び出しました。おくらは何処へ行くあてもなく、ただ歩いてい
ました。
気がつくと桜淵の土橋の上にいました。
そのとき「サッ」と風が吹き、笹がざわめき、赤子が突然「ヒー」と、悲鳴にも似た声で泣き出したのです。
おくらは怖くなり夢中で走り新堀の実家に逃げ込みました。気がつくと赤子がいません。翌朝、赤子は淵から死体で見つかりました。おりんはこの話を聞くと気が狂ってしまいました。おくらは桜淵に身を投げて死んでしまいました。
その後、桜淵で赤子の鳴き声がすると、桜の老木の洞の中から子守唄が聞こえると云う噂が立ちました。カネ善では、吉之助が熱病に冒され死に、職人も次第に減り遂には潰れてしまいました。
因縁の恐ろしさにカネ善の主人は桜淵に地蔵尊を立て、自分はあるお寺の寺男となって、不幸な赤子とおふくらの菩提を弔いながら世を送ったそうです。
【選択・朗読:秋元かをりさん】

2.車返しの弥陀のはなし(山口地区に伝わる鎌倉時代の話)
**あらすじ**
奥州の勢力者藤原秀衡は、ときの将軍源頼朝からの度重なる要請により、守り本尊として所持していた弥陀三尊をやむなく頼朝の元へ送ることにしました。
そこで、立派な厨子に納め、車に乗せ、従者に護らせて、長い道のりを無事に旅し、府中の近くまで来たところ、急に車が重くなり動かなくなってしまいました。
使いの者が鎌倉に行き頼朝にこのことを伝えると、「やむを得ないから奥州へ引き返すように」とのことでした。
戻って車の向きを変えると、車は何事もなかったかのように動き出しました。後に、この村を車返村と呼ぶようになりました。
その頃、山口堀ノ内村(現在の所沢市山口)の小さなお堂に旅の僧がひとり座禅を組んでいました。
ある夜の夢に弥陀三尊が現れ、「私は府中の車返村というところにいる。長くお前の禅室に住もうと思うから、早く迎えに来るように」と言って消えました。
翌朝、僧は府中に行き、車返村を探しましたが、知っている人は誰もいません。たまたま通りかかった老人が「奥州に帰る阿弥陀様がある」と教えてくれました。
僧は弥陀三尊の乗った車を探しあて、従者たちに夢の話をしました。従者たちもその不思議さに心打たれ、弥陀三尊を旅の僧に渡すことを承知しました。
堀ノ内村に帰った僧は、小さな草ぶきのお堂にこの弥陀三尊を奉り、毎日経をあげて敬ったそうです。
後に、来迎寺に奉られたこの弥陀三尊はたいへん霊験あらたかで、遠くから参拝に来る人が後を絶たなかったと言われています。
【選択・朗読:高橋俊彦さん】

3.トンボの宿り木のはなし(「秋津ちゅうのはなぁ昔はトンボのことで・・」で始まる秋津地区に残る不思議な話)
**あらすじ**
昔、秋津村に我儘な殿様がいました。
ある秋の日、散歩に出た殿様は家来に「村中にいるトンボを全部捕まえて来い」と言いました。家来は、村中のトンボを全部捕るようにお触れをだしました。
次の日の朝早くからトンボを取りがはじまり、あたりが薄暗くなる頃にはトンボはすっかり取りきったそうです。
捕まえたトンボ全部を袋に入れて殿様の前に差し出しました。
殿様はたいそう喜んで袋の中を覗きこんでいました。
と、一匹のトンボが殿様の前をスーッと飛んで行きました。それを見たとたん殿様はいつものかんしゃくを起こし、トンボの袋を近くの日月神社にもって行き、ご神木の欅に向かって「これ、日月神社の大明神よ、本当に神の力があるんなら、今わしがトンボのかたまりをぶんなげるから、そこから違った木を生やしてみろ」と怒鳴りながら、思いっきり集まったトンボの袋を投げつけました。
すると、ご神木の欅の股から榎木がすくすくと生え出しました。
それを見た殿様は、榎木を指したまま石のように固くなって動けなくなってしまいました。
我儘ばかりしていたので神様のバチがあたったのでした。投げつけられたトンボはというと、一匹残らず川向こうの南の方へ飛んで行ってしまいました。
だから、秋津村にはトンボが一匹もいなくなってしまったのです。
以来トンボが飛んでいった村を南秋津村(現在の東村山市)、もとの秋津村を北秋津村(所沢市)と云うようになったのだそうです。
【選択・朗読:松本タケ子さん】

4.勘七猫塚(猫が女房に化けて恩返しをする、ちょっと怖い話)
昔、勘七と云うばくち打ちがいました。女房のおよしは癆咳でした。ある日、およしは、近くの神社にお詣りし、帰る途中で子供たちが子猫をいじめているのに出会いました。およしはこどもたちに菓子を買って与え、子猫をたすけて逃がしてやりました。それ以来およしの病気はメキメキよくなり、以前にもまして元気になりました。また勘七の方も、子分もふえ、「所沢の勘七親分」で男を売り、近郷ではばがきく身分になりました。
ある時、勘七は子分の常次郎をつれて、賭場に出掛けました。ところがこのときは落ち目落ち目で負け、持って行った金を全部すってしまいました。やむをえず常次郎を使いに立てて、所沢へ金をとりよせに帰した。
その翌日、常次郎は血相をかえて飛んで来ました。それによると女房のおよしが猫に化けて子猫を十匹ばかり踊らせ、自分は三味線をひいて唄をうたっていたというのです。
勘七は、始めは信じませんでしたが、常次郎があまり熱心に話すので、薄気味悪くなり、賭博をやめて家に急いで帰ることにしました。
しかし、家に帰ると、女房には何の異変もないので、勘七は怒って常次郎をせめました。常次郎はおよしに向かい、「おい姉御、いや化け猫、いい加減で正体を現わせ」と、攻め寄りました。およしは暫らく経ってから、「本当のことをいいましょう。実は私はおよしさんに助けられた猫です。おかみさんはもう亡くなってしまいましたが、おかみさんのご恩が忘れられず、おかみさんに成り代わって勘七さんにつくして来たのです。しかし、常次郎に見破られた以上はもうここにいるわけにはいきません。憎いのは私の正体をしゃべった常次郎だ。七日のうちにキットこの恩返しをするから覚えておいで」と、常次郎をにらみつけてどこともなく姿を消してしまいました。
7日めの真夜中のことでした。常次郎が、突然「ギャツ!」という叫び声をあげたので、勘七が目をさますと、常次郎はすでに咽喉を食い切られて死んでいました。よくみるとその傍には大きな猫が舌をかんで死んでいました。勘七は肝をつぶすとともに、あとあとたたられては大変と塚を建てて、ねんごろに猫の供養をしたそうです。これが今に残る所沢の勘七猫塚の由縁です。
【選択・朗読:宮崎保男さん】

5.行脚の弥陀(来迎寺に残るもう一つの阿弥陀様の話)
昔、堀内村(現所沢市山口)に阿弥陀如来を篤く信仰していた老夫婦がいました。ある晩のこと、来迎寺の阿弥陀様を一心に念じていると、門の戸を叩く音がしました。主人の老爺が出てみると、行脚僧が門前に立って、今夜一晩泊めて欲しいと云うのです。どこかで見たような人だと思いながら、「むさくるしい所ですが、おさしつかえなかったらどうぞ」と返事をすると、行脚の僧は、かたじけないとばかりに、設けられた席へと座を進めました。
挨拶をしようと思って老婆がヒョッとみると、驚いたことには、この坊さんは、日ごろ自分たちが信仰している来迎寺の阿弥陀様のお衣をつけているのでした。老婆は老爺にそのことを伝えると、老爺も驚いてしまいました。まさしく、金色の衣に篠の葉の模様がこまかについているではないか。老人夫婦は、なお注意しみると、その顔かたちまでが阿弥陀様そのままで、しかもお供の僧まで脇侍の菩薩に似ているのです。そこで老人夫婦は、心をこめてのもてなしをして、翌朝早くお帰し申した。お帰りになるときに、老婆は、何かの見覚えを残しておきたいと、念のために、そっと紅を以って篠の葉模様の衣の裾へ、心覚えの印をつけておきました。
その翌朝、来迎寺に行って、その阿弥陀様を拝すると、はたして、御衣の裾に紅がついていたという。驚いた夫婦は、このことを来迎寺の和尚に話すと、和尚はこの上阿弥陀様に行脚をおさせするのはもったいないといって、ちょうど、お堂の前に残っていた三尊の御足跡に「これからは行脚をなさらないように」といって、足止めのまじないをしました。
それからは阿弥陀様も行脚することがなくなったということです。
【選択・朗読:宮崎保男さん】