川越散策

1.日 時:10月10日(土)晴れ
2.コース:西武線本川越駅前→中院→喜多院【仙波東照宮・慈恵堂(本堂)・客殿(家光誕生の間)・書院(春日の局化粧の間)・五百羅漢】→三芳野神社→市立博物館→時の鐘→蔵造りの街並み→大正浪漫通り→本川越駅
午前10時に本川越駅前を出発し中院に向かった。
◯中院

喜多院は当初は無量寿寺と号し北院、中院、南院の3院が存在していた。江戸時代はじめに川越大火があり寺の多くの建物が焼失、後に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方の現在の場所に移動し、南院は明治の初めに廃院となった。
中院は川越茶・狭山茶の発祥の地。開山の際、円仁が境内に薬用として栽培したのが始まりだそうだ。
境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室「不染亭」があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。
また、ここには藤村の義母加藤みきの墓があり、墓石の「蓮月不染之墓」は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれている。
◯仙波東照宮
元和2年(1616)家康没後の翌年、家康の遺骸を久能山から日光に移す道中、天海僧正が喜多院で4日間留め大法要を営んだことで、寛永10年(1633)にこの地に建立した。寛永15年の大火で延焼したが、家光の命により寛永17年(1640)に再建された。当初から独立した社格を持たず、喜多院の一隅に造営された。本殿、拝殿の周囲には歴代の川越城主が奉納した石灯篭がある。


◯喜多院
正式には星野山無量寿寺喜多院という。
平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけられた。その後、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぐ。慶長16年(1611)徳川家康が川越を訪れたときに、天海僧正の意見により酒井備後守忠利に工事を命じ、喜多院と改めた。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。三代将軍徳川家光は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山の別殿を移築して、客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのため。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、現在、文化財として保存されてる。


◯五百羅漢
喜多院山門の北にある。
天明2年(1782)に北田島村の百姓で出家した志誠(しじょう)という人物が発願して造立をしはじめ、その後、三内坊舎の慶厳、澄音、祐賢などが継で浄財を諸方に勧進して、文政8年(1825)に完成したもの。(市指定史跡)
釈迦の十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座している。
五百羅漢とは,初めての経典編集に集まったお釈迦様の弟子達だが、いずれもお釈迦様の教えを後世に伝える大切な役割を担った。
◯三芳野神社
童謡「とおりゃんせ」は当社の参道が舞台と云われる。
当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。
城内にあることから一般の参詣客がこの天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓から天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、お参りしなければならなかった。また、参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と唄われるようになったと記されていた。
◯時の鐘と蔵造りの街並み
「時の鐘」は、寛永年間(1624~44)に川越城主・酒井讃岐守忠勝の命によって建てられたと云われている。
江戸時代は、半刻(1時間)ごとに時刻を知らせていた。現在は4代目。明治26年の川越大火後に建てられたもので、構造は江戸時代のものをそのまま模し、木造の楼の高さは、約16メートルだそうだ。現在、鐘は電動式となり、午前6時、正午、午後3時、午後6時に鳴らされる。
江戸文化の影響を受け城下町・商人の町として栄えた川越には江戸町家形式の蔵造りの建物が連なり、特に仲町交差点から札の辻交差点にかけての一番街は蔵造りの商家が立ち並び江戸時代の面影を今に残している。
川越の蔵造りの特徴は、倉庫としての蔵でなく、店舗を蔵造りとした「店蔵」である。通りに面した商家の店舗を蔵造りにすることで、周辺からの類焼を防ぎ、裏につづく土蔵とあわせて敷地内への飛び火を防いだそうだ。
大正浪漫通りを抜け、本川越駅に戻ったのは午後3時過ぎであった。