所沢と大石氏

鎌倉時代末期、新田義貞が兵を起こし鎌倉を攻め、鎌倉幕府を滅ぼしたのは有名な話である。
その後、足利尊氏が征夷大将軍となり京都に幕府を開くことになる。足利尊氏は関東十ヶ国の守護を支配させるために、出先機関として鎌倉府を設置しその長官を鎌倉公方と云った。
鎌倉公方の補佐役として関東管領を置いた。この関東管領の職についたのが、武蔵野国の守護上杉氏である。上杉氏は家臣(重臣)大石信重を守護代に任じた。大石信重は木曽義仲の末裔だそうだ。
墓所は、信重が開基の曹洞宗大龍山永源寺(現、所沢市久米)にある。永源寺は「雪割草」の咲く寺としても有名である。
  野遊びの肴に山の芋そへて
       ほり求めたる野老沢かな

この歌は道興准后(どうこうじゅごう)が文明18年(1486)暮れから2カ月滞在していたときに、所沢の観音院「新光寺」で福泉と云う山伏にお酒と山芋を振る舞われた。その時の様子を詠んだとされている。
所沢の地名の起こりは「野老沢」からきているそうだ。この話では山芋のことを「ところ」といい漢字の当て字で「野老」と書くと聞く。また街道沿いの実蔵院の山号は「野老山」という。
道興准后は第24世聖護院跡であり、近衛房嗣の次男として摂関家に生まれ、早くから仏道に入った人物(修験僧)である。
何故このような身分の高い僧が所沢に来たのか?
十一代大石顕重(おおいし あきしげ)の伯母の母親は十玉房と云い修験者出身であったため、道興はこの地に立ち寄ったのではないかと思われる。大石顕重は道興を手厚くもてなしたと云われている。修験僧は全国各地を訪れていたので、各地の情報を豊富に持っており、顕重は、これらの情報を巧みに収集していたのではないかとも云われている。
                          (2010.2.13 門内さんの講義より抜粋)