鎌倉街道を歩く

今日は、狭山市駅から新田義貞ゆかりの「徳林寺」、木曽義仲の子義高ゆかりの「清水(志水)八幡宮」、「身隠し地蔵」を経由して、智光山公園までの散策。この付近は「鎌倉街道上道(かみつみち)」が通っていた所だが、現在は県道「所沢狭山線」となりその名残を僅かに留めているにすぎない。
○徳林寺
鎌倉街道沿いにある曹洞宗の寺。
当寺は元弘3年(1333)5月、上州の地で旗揚げした新田義貞が、鎌倉攻めの合戦のおり、この地に本陣を置き、その守護仏として、聖観世音(しょうかんぜおん)を安置した伝えられている。また、文和(ぶんな)2年(1353)から9年の間、鎌倉公方初代足利基氏(尊氏三男)が、滞陣したとも言われている。



○清水(志水)八幡宮
国道16号線沿いにある。祭神・清水冠者義高 (しみずのかじゃよしたか)は、木曽義仲の子として比企郡大蔵に生まれ、6歳の時に伯父源頼朝に人質として鎌倉に呼びよせられ、成人になるや娘大姫の婿となり鎌倉営中に住まわせた。
その後、父義仲が頼朝と不仲になり誅滅した後、義高も頼朝に疑いを受け謀殺されるとの風評に、寿永3年(1184)4月、畠山重能の住む現在の嵐山町へ向かうが、すぐ頼朝に知られ、途中当地入間川八丁の渡し付近で藤内光澄により殺害されてしまった。
頼朝の妻政子と大姫がこの悲報に嘆き、また畠山重忠等の進言により無実なことが明らかとなり、当地に壮麗な清水八幡宮の社殿を造営し、政子自ら参拝し義高の霊を慰め、かつ神田を寄附したいう。
しかし、後の応永9年(1402)8月の大洪水ですべて流失し、後年川原より石祠が発見され、現在の場所に鎮座し再建された。        
(狭山市教育委員会資料より)
○身隠し地蔵(影隠し地蔵)
身隠し地蔵(影隠し地蔵)と呼ばれるこの地蔵尊は木曽義仲(源義仲)の子で源頼朝の娘大姫の婿である清水冠者源義高にまつわる伝説を今に伝えている。
木曽義仲が京都に兵を挙げたのち、後白河法皇の宣旨を受けた頼朝の弟範頼・義経軍に敗れ寿永3年(1184)に討ち死した。
頼朝に人質となっていた義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで頼朝の手から逃れ、父義仲の出生地でもあり関係の深かった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町へ向かう。しかし、入間川の地まで来たときに、追手の堀藤次らに追いつかれたことが吾妻鏡に記されている。一度はこの地蔵尊の陰で難を逃れたものの、ついに捕えられ、藤内光澄により殺害された。この地蔵尊は、義高の悲劇を憐れんだ村人が建てたとも言われている。
なお、現在の地蔵尊は狭山・日高線道路の拡張により、もとの場所から少し移動しているそうだ。
      (狭山市教育委員会資料より)
○智光山公園
智光山公園にある九頭竜池(九頭龍池)とその周辺は、その昔、智光山講という修験場であった。智光山公園の名は、この修験場が「智光山」と呼ばれていたことに由来する。
東西1,300m、南北480m、総面積53.8ha、東京ドーム約11個分の広大な敷地をもつ都市公園(総合公園)で、武蔵野の面影を色濃く残す。自然林のある園内には、こども動物園や都市緑化植物園、キャンプ場、市民総合体育館など様々な施設がある。
智光山公園の奥にある桜は、今が丁度見ごろ。桜の舞う木の下で花を見ながら昼食にした。今日は土曜日とあって家族連れも多い。