野火止用水~平林寺~鬼鹿毛馬頭観音を歩く

日 時:2010年5月8日(土)
参加者:11名
コース:清瀬駅南口・・野火止橋・・西堀・新堀コミセン・・野火止用水分岐点・・本多緑道・・新座市体育館・・隅屋敷橋・・平林寺(惣門・三門・仏殿・本堂・松平伊豆守信綱墓所・野火止塚・業平塚等)・・睡足軒・・野火止公園・・新座駅北口・・鬼鹿毛の馬頭観音・・新座駅
■野火止用水の歴史
徳川家康が江戸城へ入府後50年ほどたち、江戸に人口が増加すると上水の不足が起こり、幕府は、承応2年(1653)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可した。
総奉行は老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎で、玉川庄衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負った。工事は難工事になり、二度にわたって失敗したため、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654)に完成した。
信綱は、その功績により、生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許され、承応4年(1655)に野火止用水を開削した。工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれている。現在の小平市から掘り起こし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24kmにも及ぶ用水路である。
用水路は、素掘りにより開削されているが、土地の低いところ等には、版築法などにより堤を築いたりして野火止めの台地に引水した。
川越の商人・榎本弥左衛門が書いた「萬之覚」によると工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されている。
用水の分水割合は、多摩川用水7割、野火止用水3割といわれ、主として飲料水や生活用水に使われた。
この野火止用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地を計画的な短冊形に区画し農民を入植させ、新しい村(野火止、西堀、菅沢、北野)を創り、さらに周辺の他領16カ村をはじめ、松平家の一門や家臣まで開発に参加させ計画的な新田開発を行った。
その後、寛文2年(1662)に新河岸川に懸樋をかけ、用水が対岸の宗岡(志木市)に引かれ、また、分水が舘村(志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田耕作にも使用されるようになった。
豊かな水を得た地元の人々は、この用水に深く感謝し、後世「伊豆殿掘」とも唱えたそうだ。
開削以来、野火止めの台地を、その清らかな流れで潤してきた。ところが昭和24年(1949)ころから生活様式が変わり出し、排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になった。
特に昭和38年(1963)頃から宅地化が進行し、用水への排水が盛んに行われるようになる。それに追い討ちをかけるように、昭和39年(1964)に関東地方が干ばつに見舞われ、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止された。
しかし、文化的業績のかけがえのない野火止用水をこのまま滅ぼしてはいけないと、埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定し、用水路の竣設や氾濫防止のための流末処理対策を実施し現在に至っている。
「新座市散策ガイドより」(資料提供:大河原功氏)

■平林寺
臨済宗妙心寺派の寺院で約43万㎡という広大な境内は、樹木が多く武蔵野のおもかげを残し、全域が県文化財及び県名勝に指定されている。
今から約600年前(1375年)現在のさいたま市岩槻区に創建。開山は石室善玖(せきしつぜんきゅう)、開基は大田備州沙弥蘊沢(うんたく)。当初は臨済宗建長寺派。大徳寺派を経て妙心寺派の寺院となった。
寛文3年(1663) 川越藩主松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止に移転。
主な見所:
☆惣門
☆三門
☆仏殿
☆本堂
☆島原の乱戦死者供養塔
☆武田信玄の娘・見性院の墓
☆増田長盛の墓
☆松平信綱の墓
☆野火止塚(九十九塚)
☆業平塚
■睡足軒
現在は平林寺大門通りによって分割されているが、もともとは平林寺境内林の一部を形成していた雑木林を開放した自然公園。
この周辺には、江戸時代の宝永元年(1704)に上野国高崎藩の出張陣屋が築かれ、明治維新まで統治が行われていた。上野国高崎藩は、平林寺と縁の深い松平信綱の孫に当たる松平輝貞が藩主を務める藩でこの時期に先祖縁の地として、野火止、北野、菅沢、西堀、大和田の五カ村を飛び地として与えられた。
明治に入ると「日本の電力王」と呼ばれ、茶道にも造詣が深かった松永安左エ門(耳庵)の所有地となり、昭和13年に飛騨高山付近の田舎家をこの地に移築した。それが茶室・睡足軒である。
最後の数寄茶人松永耳庵は、昭和46年6月16日神奈川県小田原市板橋で97歳の生涯を閉じた。自らが傾倒する石室善玖(せきしつぜんきゅう)の開山である平林寺に葬られましたが、遺志により葬儀・法要は一切執り行われず、法号もない。
昭和47年に屋敷が菩提寺である平林寺に譲られたが、その後平林寺の厚意により睡足軒とその敷地が新座市に無償貸与され、文化遺産として公開するに至った。 (新座市教育委員会資料より抜粋)
睡足軒を後にして新座駅に向かう。新座駅を北口に抜け、さらに北に向かうと旧川越街道に出る。川越街道を川越方面に少し戻った上り坂の頂上付近左手に鬼鹿毛の馬頭観音があった。
■鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音
昔、秩父の小栗と云う人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。
大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまづき倒れてしまいました。
しかし、さすがは名馬、ただちに起き上がり主人を目的地まで届けたといいます。
所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
やがて、大和田の地に差しかかると、往路に愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡がらを見つけました。
鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。
鬼鹿毛観音は元禄9年(1696)に建立され、市内では最古・最大の石造の馬頭観音です。
像高は127㎝で、3面6臂(3つの顔と6つのひじ)の丸彫立像です。
【新座市教育委員会資料より】