国分寺を歩く

日 時: 6月12日(晴れ)
コース:国分寺駅→殿ヶ谷戸庭園→姿見の池→東福寺→東山道武蔵道→武蔵国分寺公園(昼食)→真姿の池湧水群→お鷹の道→国分寺(万葉植物園・楼門・仁王門・薬師堂)→武蔵国分寺跡→東山道武蔵道→西国分寺駅
参加者: 12名
朝からよく晴れている。天気予報によると日中の最高気温は30℃近くになるそうだ。私は風邪が完全には回復していないので、ちょっと不安が残る。国分寺駅9時30分集合。
○殿ヶ谷戸庭園
大正初期、満鉄副総裁の別邸として造られた後、旧三菱財閥の岩崎彦弥太氏の別邸として、茶室等が整備され回遊式庭園として完成した。園内の「次郎弁天の池」は野川の水源の一部である。






○姿見の池
都名湧水57選。現在の府中街道とほぼ同じ道筋となる東山道・鎌倉街道の宿場であった恋ヶ窪には湧水の集まった池があり、宿場の遊女が朝夕に自分の姿を映して見ていたことから「姿見の池」と呼ばれるよいうになった。傾城・夙妻太夫(あさずまたゆう)が身を投げた池として伝えられる。大岡昇平著作「武蔵野夫人」の舞台でもある。



○東福寺
この寺には、恋ヶ窪に伝わる悲恋物語が残っている。
源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫と名将畠山重忠とが恋に落ちました。しかし、重忠は平家と戦のため西国に行かなくてはならなくなりました。夙妻太夫は重忠の帰りを待ちましたが、いつまで経っても帰ってきません。そこへ以前より夙妻太夫に好意を持っていた男が、重忠は西国の戦いで討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしました。しかし深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。
この寺には太夫の霊を祀った石塔「傾城墓」や里の人達が墓標として植えたと云われる松がある。不思議なことにこの松の葉は一葉で切ない女心を表していると伝えられている。言い伝えの松は既に枯れてしまったが、実生の松が植え継がれているそうだ。
○東山道武蔵路
都立武蔵国分寺公園の西側に位置する。泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は古代の道路遺構。

東山道武蔵路は上野国(現在の群馬県)から南下して、私たちが住んでいる所沢市(南陵中学校庭)を通り、八国山を越え、この場所を通り、さらに、武蔵国府に向かう往還路(東山道の支路)である。
発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認された。そこで国分寺市は、地下遺構を保存して、現在の道路を築造した。現在、その道路跡の約300メートルを歩道形式で保存している。
○真姿の池湧水群
真姿の池をはじめとする崖線下の湧水群は、「お鷹の道」と合わせた環境の良さを評価され、環境庁の「全国名水百選」のひとつとしてに選ばれた。また、東京都 の名湧水57選にも入っている。

○真姿の池に纏わる伝説
嘉祥元年(848年)、絶世の美女といわれた玉造小町が病気に苦しみ、病の平癒を願い全国行脚をしていた。
ある日、武蔵国分寺薬師如来に参詣したところ、一人の童子が池に導き、「この池で身を清めるように」と言いました。小町がその通りにすると、たちまち病は癒え、もとの美しい姿に戻ったと伝えられています。
現在は弁財天が祀られている。
○国分寺
鎌倉時代末期に分倍河原の合戦で焼失し、新田義貞の寄進で再興した。江戸時代には徳川幕府の保護を受け、享保の頃(1733年)に本堂が建立された。現在の本堂は昭和62年に改築されたもの。
境内には、薬師堂や万葉植物園がある。




○楼門
江戸時代中期の建築様式を今に伝える。前沢村(現東久留米市)の米津寺(べいしんじ)にあったものを明治時代に移築。国分寺の変遷を知る上で欠かせない建物だそうだ。






○薬師堂
阿形、吽形の仁王像が立つ王門の奥にある。薬師堂は新田義貞の寄進により建てられ、江戸時代に再建された。本尊は木造の薬師如来で国の重要文化財になっている。






〇武蔵国分寺跡
奈良時代中頃に聖武天皇が鎮護国家を祈念し各地に建立させた仏教寺院。
武蔵国分寺は東山道武蔵路沿いの東側に僧寺、西側に尼寺が置かれた。
当時、武蔵国分寺は全国でも最大級の規模を誇り、隣接した国府(現府中市)とともに、武蔵国の政治、文化の中心として栄えた。しかし、鎌倉時代末期の分倍河原の合戦で焼失し、現在は史跡として整備中。
東山道武蔵路の遺構があると聞いていたが見つけることができなかった。何気なく、本日のボランティアガイドさんに尋ねたところ、その場所まで案内していただけることになった。

○東山道武蔵路(レプリカ)
谷部へ下る切り通しの部分の遺構の一部。

当時の道路面を復元したレプリカを遺構と同じ位置で高さを上げて展示していた。