八王子城跡を訪ねる

日時:11月13日(土)
参加人数:19名
☆八王子城は北条氏照が武蔵国支配の拠点とした城であり、日本百名城のひとつです。この城は急峻な山地を生かし、天然の要害として造られた戦国時代末期の典型的な山城です。所沢市にある滝の城は八王子城の支城として、北関東出陣の拠点としていました。☆
コース:所沢発(8:53発)⇒東村山(8:56着)(9:01発)⇒国分寺(9:13着)・JR国分寺(9:21発)⇒高尾(9:46着)
霊園前バス停(10:10)⇒(20)⇒城跡管理棟(10:30)⇒大手門跡(11:00) ⇒御主殿跡(11:15 )
 Aコース:御主殿跡( 11:30 )⇒1~4段の石垣⇒石切り場⇒八王子神社⇒本丸跡(12:30)
 Bコース:御主殿跡(11:30 )⇒金子曲輪⇒小宮曲輪⇒八王子神社⇒本丸跡(12:30)
松木曲輪(12:40)昼食(13:30発)⇒小宮曲輪(13:40)⇒金子曲輪(14:05)⇒城跡管理棟(14:30 )⇒霊園前バス停(14:50)/霊園前(14:55発)⇒高尾(15:08発)⇒所沢(16:00着)

○八王子城の概要
八王子城は山麓の居館地区、山上の詰めの城である要害地区、城下町、武家屋敷にあたる根小屋地区にわかれて、東西3.5キロ、南北2.5キロの広大な山地に広がる典型的な中世の山城です。
戦国末期の天正年間(1580年頃)に北条氏照により築城され、小田原城とともに戦国時代最大規模の城域を誇っていました。
しかし、天正18年(1590年)6月23日に豊臣秀吉の軍勢により落城し、その結果小田原の北条氏は降伏し、秀吉の天下統一が現実しました。

★大手門跡
昭和63年(1968年)に調査の際に、門の礎石や敷石が見つかりました。
現在は埋め戻されています。







★虎口

城の入り口。

城の権威と、威圧感を表すために、ここの石段は上層に行くにつれて広く造られているそうです。上からみるとその構造が分かります。




★御主殿跡
氏照が家族とともに日常居住し、領国の政務を執っていたところです。
御主殿からは1500点の中国明の染付磁器・青磁碗・ベネチア産のレースガラスの壺・鎧・小柄・銅銭などが出土しており国際的な交易が行われていたことが窺えます。
生活面でも、領国内で取れたアワビやサザエを食べ、お茶を楽しみ、枯山水の庭を眺め、お酒を飲む日々を送っていたようです。
落城後は徳川の直轄領となり、また明治時代以降は国有林であったため、落城当時のままで保存されています。

★御主殿の滝
落城のとき、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと云われています。
その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられています。
その後、(伝承)
城山川を流れる血は、いつしか赤い糸のように細くなり幾層にもなりました。やがて血の糸は所々で切れると、赤く太い蛭となり川底に向かって泳いで行ったそうです。蛭は里の村人が洗い物をしていても川の底の方でじっとしているだけで決して吸いついては来ませんでした。
ところが、ある時、越後の商人がやってきて、たまたま城山川で足を洗おうと川に入ったところ、川底にいた無数の蛭が商人の足に吸いつき、商人の足は腫れあがり、一歩も歩けないような状態にまでなってしまったそうです。
村の人の話では、城山川の蛭は里の者や南の者には決して吸いつかないが、北の者、そうです、八王子城を滅ぼした加賀の前田や越後の上杉、信濃の真田にゆかりの者には食らいついてゆくそうです。
無残な最期を遂げた将兵たちの怨念は今も城山川の川底で、北の者がやってくるのを拒んでいるのでしょうか。

★金子曲輪
金子三郎右衛門家重が守備していたと云われています。
尾根をひな壇状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫がされています。
金子氏の本領は旧入間郡仏子村です。


←金子曲輪付近の山道



★4段の石垣・石切り場
御主殿跡から本丸に向かう急な坂道があります。
この道を登って行きますと4段の石垣があります。石垣は自然の山石を使った野面積みの石垣で、御主殿から松本曲輪への重要な防衛線でした。
3段目の石垣上には高さ60センチの平らな石があり指揮台石と呼ばれています。4段目の石垣を更に登ると石切り場に出ます。ここは、築城期に石垣の石材を採掘した所です。砂岩・粘板岩の岩盤に切り込んだ跡が見られます。

★八王子神社
延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天主と八人の王子が現れました。その因縁で延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったと云われています。この伝説が「八王子」の名称の起源とされています。





★本丸跡
城の中心で、最も重要な曲輪です。平地があまり広くないので、大きな建物はなかったと思われます。
八王子城の戦いは、わずか1日で決着しましたが、とても激しい戦いでした。天正18年(1590年)6月23日、豊臣側の前田利家軍は城の大手側、上杉景勝は搦め手側に分かれて攻め込みました。
このとき、八王子城主北条氏照は小田原城に詰めており、留守を横地監物、中山勘解由(かげゆ)らの重臣が守っていました。重臣らは奮戦しましたが、ついに搦め手側から破られ、ついで大手側も陥落、重臣らの多くも討ち死にし八王子城は落城しました。
この戦いの様子は、江戸時代に編纂された「新編武蔵国風土起稿」や「武蔵名勝図会」に記されています。
【八王子市教育委員会資料その他資料を参照】