嵐山を歩く

〇稲荷塚古墳
かつて、この墳頂に稲荷社が祀られていたところからこの名称で呼ばれている。古墳時代後期(7世紀後半)の築造と推定される。
墳丘の規模は、約20㍍、高さは、約3.5㍍。主体部は古くから開口しており、副葬品などは失われていた。これは、緑泥片岩の割石を積み上げた横穴式石室であり、羨道部・前室・玄室によって構成される。しかし、羨道部については、完全に破壊され、現存しない。また、前室の側壁は、半ばより上方を復元修理したものである。この付近には、東原・寺山などの古墳群が大規模に展開し、かつては百を越える小円墳の存在が伝えられているが、現在ではこの古墳を含めて数基を残すのみとなってしまった。そのいずれもが同様の石室を備えていたものと考えられ、中でも稲荷塚古墳は、保存状態も良く、この地域の特色を示す代表的な資料として、現在町の史跡に指定されている。
                       【埼玉県嵐山町教育委員会資料より】
〇菅谷館跡
菅谷館跡は鎌倉時代の有力御家人畠山重忠が文治2年(1187)までには居住していたと云われている中世の遺跡である。
元久2年(1205)武蔵野国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉時代の書籍「吾妻鏡」に記されている。現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空掘等からなり、このような形になったのは戦国時代になってからのことと考えられる。
現在、比企城館跡群菅谷館跡として国の史跡に指定されている。
                【左:本丸跡/右:二の丸跡】
畠山重忠と畠山氏
長寛2年(1164)、武蔵国(埼玉県・東京祁・神奈川県の一部)の豪族畠山重能の子として誕生した。母は、相模国の豪族三浦義明の娘。父の重能が所有していた畠山荘は、現在の埼玉県大里郡川本町畠山一帯(現深谷市)と考えられ、重忠はその一角にあった畠山の館で誕生したといわれている。
畠山氏は、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。秩父氏は、平安時代中期ころから、現在の秩父市一帯を本拠地として秩父盆地を開いた豪族で、武蔵国内で大きな勢力を誇っていたようだ。また、この時代の生活に欠かすことのできない馬を育て管理する牧(秩父牧)も掌握していたことが、その実力をさらに不動のものとしていた。
【参考文献:埼玉県嵐山町教育委員会資料】
〇県立嵐山史跡の博物館
鎌倉時代の武士の館(菅谷館)から戦国時代の城郭(須賀谷城)に亘る、中世の館や城郭、畠山重忠をはじめとする武蔵武士、板碑・五輪塔・宝篋印塔などの中世石造物、鎌倉街道上道など、中世に特化した博物館である。





〇安岡正篤記念館
安岡 正篤(やすおか まさひろ)
明治31年(1898)2月13日~昭和58年(1983)12月13日)
陽明学者・思想家。
大阪市中央区生まれ。大正11年(1922)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。
拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。
昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。
氏は昭和20年8月15日、昭和天皇によるいわゆる「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にもかかわり、また「平成」の元号の考案者でもあった。まさに日本の歴史をつくられた大碩学である。
屋敷内にある金雞神社(左の写真)は主神には天照皇大神。産土神は八幡太郎源義家公と畠山荘司重忠公。学問神は孔子、孟子、安岡正篤、金雞学院以来の道縁者他を祀っている。
  【参考文献:安岡正篤記念館資料】

(注)写真はすべて下見の際(4/15/2011)に撮影したものです。