寄居北条まつり

日 時:10月16日(日)
集 合:本川越駅9:00集合
参加者:11名
昨日の雨も朝には上がり、次第に晴れて日中は30度近くになると云う予報である。
午前9時に本川越駅改札口前に集合。
今日は、川越市も「川越まつり」であり、駅付近は既に露店が立ち並んでいた。焼イカ、たこ焼き、焼そばなどのいい匂いがあたり一面に立ち込めていた。
〇寄居北条まつり
例年は4月第2日曜日に行われているが、今年は3月11日に発生した「東日本大地震」の影響で秋に延期された。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの時、鉢形城に陣取った北条氏邦は、5万人の豊臣勢を相手に、わずか3,500人の兵力で1ヶ月余り攻防戦を続けた。この時の戦いを再現したものが「寄居北条まつり」で、今年は開催50回を数える。
市街地をパレードした武者姿の老若男女が続々と荒川の河原(玉淀河原)に現れた。
その数およそ500人。
荒川を挟んで対峙する北条軍と豊臣連合軍。
午後2時
打ち上げ花火の合図で繰り広げられる攻防戦は大砲の発砲も交え戦国時代の合戦さながらの迫力であった。
北条軍大将・北条氏邦と、豊臣連合軍大将・前田利家の一騎打ちを経て、勝負はつかないまま、正龍寺住職の仲介で和睦となる。氏邦は僅かな家臣を連れ前田陣営に入り、一人残された大福御前は鉢形城を守り続けた多くの命を弔うとともに、領民たちの穏やかな暮らしを願い最後の舞「旅立ちの舞」を披露し幕となる。【参考文献:寄居北条まつり資料】
私たちは、合戦に先立ち、当地のボランティア・ガイドの案内で鉢形城祉を見学した。
笹曲輪から入城し本丸祉に出た。そこから花火師の作業場の横をとおり田山花袋碑に向かった。
進行方向右側は断崖絶壁であり、その先に荒川が流れている。今、私たちが歩いて来た道は自然の地形を生かした城壁の上だったのだろう。
その後、二の曲輪から大手を通り、諏訪神社境内に入った。復元された石積土塁を見ながら伝秩父曲輪に出ると、眼下に荒川が、その先の河原に、まさに集まり来る武者姿の人々の姿が見える。
玉淀河原へ焦る気持ちを抑え三の曲輪へ、稲荷神社からエドヒガン桜を見ながら深沢川に出た。今は穏やかな流れであるが、昔は城を守るのにふさわしい急流だったのだろう。
深沢川の先に土塁が残っており、その上を歩くことができる。
しかし、土塁の上は舗装されており、ちょっと残念であった。
鉢形城歴史館がゴールである。
〇鉢形城

城は荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて天然の要害をなしている。この地は交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点であった。
鉢形城は文明8年(1476年)関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられている。後に、この地の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさになった。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は北関東支配の拠点として、さらに甲斐、信州からの攻防の備えとして重要な役割を担っていた。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北國軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りに及ぶ籠城の後、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城した。
その後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一、日下部定好が代官となりこの地を統治した。
当城は戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となっている。

【参考・引用文献:鉢形城歴史館資料】