岩崎の簓(ささら)獅子舞~瑞岩寺~

日時:10月8日(土)
場所:所沢市山口400瑞岩寺
瑞岩寺へは:西所沢駅下車。55号線を南へ約700㍍。岩崎交差点を過ぎ、すぐ右手。(徒歩12分)

秋晴れの爽やかな日である。
瑞岩寺につくと、間もなく式典が始まり「岩崎の簓獅子舞の由来」の説明があった。
来賓席には市長をはじめ、地元の国会議員、県議会議員、市議会議員、間もなく始まる市長選候補予定者と噂のみなさん、地元小中学校長、教頭、消防署関係者、町内会長まで、沢山の方が出席していた。
これらの方々の挨拶や紹介が一通り終わると、いよいよ獅子舞の始まりである。

◆瑞岩寺
当寺は曹洞宗の寺で、山号を祥雲山と称し、久米永源寺の末寺。ご本尊は十一面観音座像。
また、この寺は武州七党の山口氏の菩提寺である。
本堂に向かって左側に山口城主の墓と伝えられる石塔がある。
寺宝として、鞍一掛がある。その鞍は黒漆塗で桔梗の紋をつけた跡があり、山口平内左衛門が奉納したものと伝えられている。
当寺境内で、毎年10月の第2土曜日午後2時頃から簓獅子舞が行われる。





◆岩崎の簓(ささら)獅子舞の由来
岩崎の簓(ささら)獅子舞は所沢市山口の岩崎地区に伝えられている獅子舞で、かっては「岩崎のシシクルイ」ともいわれていた。それは、シシをクルウと云い、一曲舞うごとに獅子を一庭クルウと云っていたことに由来するようだ。

今から、三百九十余年前、慶長19年(1614年)岩崎の地頭(旗本)、宇佐美助右衛門が大阪冬の陣に戦功をたてての帰途、京都から三頭の獅子頭面(龍頭面)を求め、獅子舞の師匠も伴い凱旋し村の若者たちに稽古をさせた。
その2~3年前に大火で焼失してた岩崎の瑞岩寺が再建され、その上棟式に奉納舞ったのが始まりとされている。
更に数年後、村々に悪病が流行した際、獅子がその病家を訪れ舞い、その厄を払ったところ悪病はたちまち治った。
以来、岩崎地区は勿論のこと、近隣の村民からも悪病除け、火伏せ(火災から守る)の守りとして崇められている。
この獅子の豪放さは、他の追随を許さぬものがあり、大獅子と中獅子の決闘の場面は鑑賞する人々に、あたかも舞人が魔に憑かれた火の念を思わせ、戦国乱世に権力と横暴に明け暮れていた当時の世相を克明に表現したものである。
天下の実権を牝獅子になぞらえ二頭の牡獅子がこれを奪わんと、数度決闘するも正しい天の裁きにより屈伏、心を改めて相携い協力して真の平和な村づくりを進めるの意味したものである。
舞場は直径21尺(約6㍍40㌢)の輪を画き、周囲に笹のついた青竹八本を立てて、縄で連携しその間にシメをさげる。
☆獅子舞の構成
棒使・・・・4人(小学4~6年位の男子)
山伏・・・・1人(法螺貝をもつ)
簓子・・・・3人(小学低学年女子)
(内訳:牡丹のササラ、月のササラ、日のササラ)
縄追・・・・1人(左手に軍配、右手に榊)
獅子・・・・3人
(内訳:牝獅子、中獅子、大獅子)
笛 ・・・・5~6人

3匹の獅子は、簓子という伴奏者が舞場の周囲に立ち、花笠をかぶり、左右の手に持った簓という楽器をすり合わせて出す音の調子に合わせて踊るところから簓獅子舞と云われている。
元来、獅子舞は岩崎に永住する家の長男にのみ引き継がれて来たが、近年はその制度を改め広く後継者の育成を図ると共に獅子舞保存と継承に努めている。


昭和44年6月所沢市無形民俗文化財に指定。
【参考文献:岩崎獅子舞保存会資料】