狭山丘陵西端「箱根ヶ崎」周辺を歩く

集合場所・時間:所沢駅9:50
参加人員:16名
コース:(所沢⇒国分寺⇒拝島⇒箱根ヶ崎)箱根ヶ崎駅⇒加藤神社⇒箱根ヶ崎駅⇒鎌倉街道⇒残堀川⇒狭山池公園(筥の池)⇒調練橋⇒狭山神社⇒機神社⇒狭山茶場の碑⇒耕心館⇒日光街道(千人同心)⇒水準点/分水点⇒瑞穂町資料館⇒ジュンサイ池公園⇒円福寺⇒箱根ヶ崎駅(15:30)
狭山丘陵の東端は八国山であり所沢市はその北側に位置する。八国山は歴史散策クラブでも何度か訪れた場所である。
一方、狭山丘陵西端の箱根ヶ崎周辺は鎌倉海道、青梅街道、日光街道が通っており、歴史や文化面で所沢との関わりも深い。今回はこの周辺を歩きこの地の文化や歴史などを学ぶ。
〇加藤神社(加藤塚
1582年(天正10)4月、天目山の合戦に敗れた武田勝頼の家臣加藤丹後守影忠が甲州から妻子と数名の家来を引き連れ当地に逃れて来た。
その一族がこの地を守る北条氏の配下で村山土佐守率いる兵と戦って討ち死にした。村人はその死を哀れんで塚を造って葬ったのがここだという。
境内には、周囲約8㍍の大欅や杉、桜、くぬぎ等の大木が茂っていたが、戦後航空障害や国道16号線の開通のため伐採されて、現在ではその面影を偲ぶことが出来ない。

〇鎌倉街道
箱根ヶ崎駅から北に向かう細い道が鎌倉街道である。そのまま進むと東京環状(16号線)に出る。この先、鎌倉街道が何処を通っているのか不明であった。東京環状(16号線)を更に北に進むと箱根ヶ崎交差点で青梅街道に交わる。








〇残堀川
狭山池付近は耕作不可能な湿地帯であったため、池の水抜きののために掘割を造り残堀川に水を流したと云われている。昔は荒川水系に流入していたようだが、江戸時代の初めに玉川上水の助水とした。
★蛇喰次右衛門(じゃくいじえもん)伝説
「昔、蛇喰次右衛門という男がいた。
ある日、池の水際の若草を刈っているうちにあまりの暑さにひと汗流そうと池に飛び込み泳いでいると、一匹の小さな蛇が次右衛門の腕にかみついた。気丈な次右衛門は口で噛み殺してしまった。その小さな蛇は実は大きな蛇で、三日三晩血潮が流れて川となったので、蛇掘川と呼ぶようになった」そうだ。
〇狭山池公園
☆狭山池(筥の池)
この辺一体は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降るとこの辺の水が集まり、丸池を中心とした約18ヘクタールは水びたしになり粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝地になっていた。
鎌倉時代の歌集八雲御抄(みしょう)に
冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき
と詠まれ、古くから世に知られた池であった。
明治から昭和にかけて芝地の大部分は農民に払い下げられたが残った池及びその周辺(約1~2ヘクタール)は、昭和26年に都立狭山自然公園に指定された。 その後、昭和58年町が譲り受け、公園として生まれ変わり、町民の憩いの場所となった。        
☆調練橋(幕末の農兵訓練の場所)
1865年(慶応元)~翌年にかけて、この辺りの芝原で農兵に鉄砲などの調練を行ったために「調練橋」と名づけられた。

「箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村は天領で、西洋式戦術の研究家として有名な江川太郎左衛門が代官として支配していた。
そのような関係でこの地が調練場として選ばれたのかもしれない。
参加者は、近隣周辺村々の役人層の子弟が大部分で総勢79人、そのうち箱根ヶ崎村4人、石畑村4人、殿ヶ谷村2名であった。
この訓練は、武士階級の崩壊や徴兵制につながる我が国の近代化への第一歩を示すものとして意義深いもの。

〇狭山神社
国道16号(旧日光街道)の左の小高い山上に鎮座する。一ノ鳥居をくぐり三ノ鳥居まで、約百段の石段を登る。一ノ鳥居は明神鳥居(石造)、ニノ鳥居は神明鳥居(石造)、三ノ鳥居は両部鳥居(木造)とそれぞれ異なる様式である。
むかしは箱根権現、三社大権現ともいわれた。狭山神社の創建年代はよくわかっていない。祭神は箱根大神、木花咲耶姫尊などとなっている。
箱根大権現は永承年間(1046-1053)、源義家が奥州征伐に際し、筥の池(狭山池)辺りに陣営した折、箱根権現の霊夢を感じたことから、当地に勧請し、凱旋の時に奉賛したと謂われる。
箱根ヶ崎村の鎮守として、明治6年村社に列せられる。神社の入り口の鳥居左手には1859年(安政6)に作られたという神社水鉢がある。狭山茶は地場産業であり、本殿の左手には勝海舟の題額で著名な狭山茶場の碑がある。
石段の途中の左側奥には、大正時代のまちおこしを感じる梅林の碑がある。神社の裏側は、時期には斜面一帯が紫色の花で埋まるカタクリの里になっている。
☆狭山茶場の碑                   ☆機神社 
【勝海舟題額の狭山茶場の碑】
江戸時代の頃から絹織物(村山大島紬)が盛んに織られていた。




〇耕心館
当地の豪農で醤油製造業を営んでいた細渕家を買収し、現在は社会教育施設として運営されている。
母屋の原型は、江戸時代末期の築造で、当時豪農として、その後、醤油醸造業、養蚕業が営まれた。2Fは屋根構造に養蚕の名残を見ることができる。和室の書院障子の木組みなどは、大正時代の建具の実例として貴重なものである。
昭和50年代にフランス料理店として大幅な改装を経て、平成12年瑞穂町が取得し整備したのが現在の耕心館である。江戸時代から現在に至るまで、人々の営みに手を加えられた母屋は、和洋折衷様式の風情ある独特な建築美を生み出している。

〇日光街道と八王子千人同心
☆日光街道(日光往還)
青梅街道箱根ヶ崎宿を通る日光街道は、八王子に住む千人同心が日光東照宮火番のため日光へ赴く道として整備された。毎年旧暦5月25日と11月25日に八王子を出発した。八王子を発って拝島、箱根ヶ崎、二本木、扇町屋(入間)、鶴ヶ島、坂戸、松山、行田、館林、佐野から、鹿沼を経て日光まで22宿、40里の行程だった。それを3泊4日でいったというから1日10里40kmの割合である。


☆八王子千人同心
八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。 徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足した。当初は代官頭大久保長安が統括した。
千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。
千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かった云われる。
組織
十組・各百人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は200~500石取りの旗本として遇され、組頭は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持~30俵1人扶持である。
千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。
八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。
〇円福寺
円福寺は振武軍が宿陣した場所の一つ。
臨済宗建長寺派の寺、慶安元年に朱印地10石が与えられている。
☆振武軍と円福寺
時は幕末、旧幕府方の諸隊の中には、徳川慶喜が新政府に対し恭順の姿勢を取るようになった以後、それを受け入れることができず江戸から脱走した者たちが多くいた。その一つ彰義隊は、上野を拠点に徹底抗戦を唱える旗本強硬派天野八郎など「山梨グループ」。江戸を戦場にしないで郊外に退き新政府側を牽制しようとする渋沢誠一郎・尾高惇忠・渋沢平九郎など「埼玉グループ」に分かれていた。
彰義隊からの分派した埼玉グループは振武軍として、田無村に集結した。その後、振武軍は箱根ヶ崎村に向かった。旅宿「関屋」に幹部が泊ったが、多くは円福寺に泊り、残余は、田中屋・根岸屋に泊った模様。

【参考文献:瑞穂町資料及び3班作成資料】