逃水の里を歩く

日 時:9月8日(土)西武新宿線入曾駅前13:00集合
コース:入曾東口駅前(13:05)⇒鎌倉道上道⇒金剛院⇒入間神社⇒常泉寺観音堂⇒七曲の井⇒野々宮神社⇒山王橋・山王神社⇒化け地蔵⇒水野新田⇒堀兼神社・堀兼之井⇒鎌倉道⇒八軒家の大井戸⇒河岸道⇒大生病院(16:30)⇒フラワービルバス乗車口

おもかげぞ 語るに残る 武蔵野や 堀兼之井に 水はなけれど  《道興准后》
広く荒漠な武蔵野台地は水場に恵まれず、堀兼之井は古くから武蔵野の草枕として多くの歌人に詠まれてきました。今回は堀兼之井や水野・逃水・水押など水に関係する地名の残っている堀兼地区を散策し、飲み水に苦労した昔人の思いを感じることにした。
〇入曾東口駅前

〇鎌倉道上道
1333年5月8日新田庄を立ち義貞は利根川を渡り、鎌倉道を一路南下。11日に小手指の地に至る倒幕の道。
群馬県から児玉町~嵐山~日高~狭山~所沢~東村山~多摩川を渡り、鎌倉に至る。






〇金剛院

本尊は、不動明王。 多摩郡成木村安楽寺 (現青梅市成木)の末寺で、維新以前は御嶽神社(現入間野神社)の別当寺でした。 創立年代は不詳ですが、天文2年(1533年)深悦 沙門が中興し、慶安2年(1649年)十石の朱印状を付せられました。 天保4年及び明治38年11月に火災にあい、四脚門と土蔵を残して全焼しましたが、翌年仮本堂を建て、昭和32年大改装を行いました。境内には薬師堂・地蔵堂があり廃堂としましたが、これらの堂は院よりも古いといわれています。寺宝の木造地蔵菩薩立像は、市指定文化財です。毎年10月第3土曜日・日曜日の両日にわたり、南入曽の金剛院と入間野神社に入曽の獅子舞が奉納されます。

〇入間野神社
祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)木花策耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
建久2年(1191)の鎮座と伝えられ、当社奉斎の神像には、天正6年(1578)卯月と記されています。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称しました。慶長2年社領として(1597)十石の御朱印を賜りました。
明治元年社号改正につき、御岳神社と称しましたが、明治40年5月3日 浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀しました。明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改めました。
また、境内には入間招魂社も祭られています。例年10月中旬に県指定無形民俗文化財「入曽の獅子舞」が奉納されます。

〇常泉寺観音堂・七曲の井
◆常泉寺観音堂(本尊 聖観世音菩薩)
当観音堂の古記録はなく、創立年紀は不詳ですが、建仁2年 (1202年)9月創立の伝えが残っています。 境内にも文保2年(1318年)の文字がわずかに残っている 古い碑が残っています。
また、観音堂の横には古くから 「堀カ子ノ井(ほりかねのい)」があったとのことです。 文保2年(1318年)の大干ばつの時、地域の人々が観音様に 祈り、古井戸を浚(さら)うと清水がコンコンと湧いてきたそうです。 このことによって観音様は、一層大切に崇敬されたとのことです。 観音堂は寛政4年(1463年)の建立碑と宝永5年(1708年)2月の再建碑が残っています。「七曲井」は、県指定文化財で、観音堂の中に安置されている本尊の「木造聖観世音菩薩坐像」は市指定文化財です。
◆七曲の井
飲料水を得ることが困難な武蔵野台では、竪掘り井戸を掘る技術が発達する近世まで漏斗状(ろうとじょう)に掘り下げて井戸を作りました。
このような井戸の一つが七曲の井で平安時代中頃に掘られたと考えられます。
残された古文書から江戸時代まで使われていたことが分かっています。

〇野々宮神社
祭神 倭姫命(やまとひめのみこと)
古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。
大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し、日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。
奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理に当りました。
東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。
本殿の左側には、明治40年に合祀された神社5社の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。
元旦祭や春、秋の大祭等には、市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。

〇山王橋・山王神社
◆山王橋

丸太石橋で幅2m位。約230年前の天明3年(1783)南入曽村・名主・小野田四郎右衛門が入曽村の人々の助力を得て完成しました。
その後、度々修復されたが、当時村に架かる橋は、北入曽村の観音様前に架かる入曽橋とこの山王橋が村の歴史と暮らしを助けてきました。
◆山王神社
山王様の本社は滋賀県大津市にある日吉神社で祭神は大山昨神(おおやまくいのかみ)です。関東では川越市喜多院の守護神である日枝神社と東京都千代田区永田町の日枝神社が有名です。ここの山王様のお姿は青面金剛と猿で庚申信仰との集合が見られます。青面金剛は大山咋命の本地であり猿は神の使者の意と思われます。



〇化け地蔵
地蔵が造立された貞享2年(1685)は、水野村が新田として開発されてから20年目に当たります。
尊像の上には地蔵菩薩を表す種子「カ」が刻まれ両側には同村の開発に直接携わったと思われる牛久保忠元ら48人の名前が彫られています。
村ができてから20年という節目にこうした石仏を建てた理由は、地蔵を介して村人の無事平穏を願うと同時に、村の永続を祈るといった気持ちがあったためと考えられます。
この地蔵は荒縄でしばられていますが、これは願かけのときにしばり、願いが適ったらほどいてやるという、庶民の純朴な信仰心からきたものです。

〇水野新田
水野と云う地名は、藤原俊成(1114~1204)の古歌 武蔵野に 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけりからとったと言われています。
■水野地区の開拓は、寛文4年(1664)に入曽村の農民七人の出願といわれています。
また、寛文6年(1665)川越藩主松平輝綱の鷹狩りの際、堀兼神社で眼前の原野を見て思い立ったとも言われています。
■入植者は一戸当たり間口約20間、面積1町8反、短冊型の区画が配分され、道路に沿い屋敷を構え南側に畑・最南端に雑木林を配し気候風土に合った土地利用を図っています。

〇水野地区と逃水の里
水野地区に逃水の地名はあります。昔から堀兼の井と並び武蔵野の歌枕に使われ、遠く都まで知れていました。
■逃水とは、草原などで遠くに水があるように見え、近づいて見るとそこにはなく遠のいてしまう自然現象をさしています。
■また、川の水が次第に地下に浸る通り、やがて川が消えてしまう現象を逃水ともいい、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」の水野村の項に「未無川」の記述があり、このあたりの自然の様子を示す地名となっていいます。
■此の地に残る水に係る地名:堀難井・水押・川向・北流・南流

〇堀兼神社・堀兼之井
◆堀兼神社

主祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
合祀神:大山咋命(おおやまぐいのみこと)天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)迦遇突知命(かぐつちのみこと)素盞鳴男命(すさのおのみこと)倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)
社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地に水がなく、苦しむ住民を見て、水を得ようと富獄(富士山)を遙拝し、井戸を掘らせ、水を得ることができたため、浅間神社を祭った、と創祀を伝えています。
元旦祭、春祭、秋季大祭、天王さまには堀上囃子が奉納されます。境内社には、小御嶽神社、下浅間神社、八坂神社、井上稲荷神社、日枝神社、金毘羅神社、天満宮などがあります。
※堀兼の地は女王2年(1653)に牛久保金左衛門という人によって開拓された新田ですが、地名はもっと古くからあったようです。
◆堀兼之井
直径7.2m 深さ1.9mの井戸の中央には石組の 井桁があります。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられてます。神社の前を通る道が鎌倉道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われます。
井戸の傍らに石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知(たかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。
そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹形の地としたこと、堀兼は掘り難かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがって、確信に基づくものではないともあります。

〇鎌倉道(堀兼道)
新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉を攻撃したとき5月15日の分倍・関戸の合戦で敗れ、一旦堀兼まで退却した時に通った道といわれています。






〇八軒家の大井戸
民家の庭には、半ば土に埋もれた井戸があります。
堀兼之井のような漏斗状の遺構を留めています。
  【担当班:3班 / 文献:3班調査資料】