1.日 時:11月9日(土)所沢駅7:45集合
2.参加者:16名
○札所とは
秩父市内各所〔34ヶ所〕に点在する観世音菩薩〔観音〕を祀った寺のことであり、観世音は世音〔人びとの声〕を、観ずる〔見る,聞く〕という意味。
菩薩は如来が変身した姿。観世音菩薩とは、人びとの願いや思い、苦しみなどをひきうけ人びとを救う、菩薩に姿を変えた如来様のことである。
○19番 飛淵山 龍石寺(ひえんさん りゅうせきじ)
弘法大師が千手観音像を刻み、村人達が悪龍を退治しようと観音様に念じたところ龍を退治してくれた。村人たちは御堂を建て、千手観音を安置した。これがこの寺の始まりと言われている。
○20番 法王山 岩之上堂(ほうおうさん いわのうえどう)
昔は、願上寺といわれ大伽藍の寺であったが、永禄の乱(1546・1569)により焼かれ、御本尊は仮堂に安置されていた。その後、この村の打田武佐衛門慰政勝によって観音堂が建てられた。
○21番 要光山 観音寺(ようこうさん かんのんじ)
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂、大和武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久を、東国平定を祈り、鏑矢を納めたから矢之堂とも呼ばれている。
また、こんな由来話もある。その昔、行基菩薩がこの地を訪れ、ここ八幡の社地に聖観音像を刻み祀ろうとした。これを伝え聞いた悪鬼どもが、観音像の開眼の日に火の雨を降らせて妨害した。その時、白馬にまたがった八幡神が現れ神矢を打ち払ったという。
今でも、「矢の根」が寺宝とされている。
寺の背後には長尾根丘陵が続く。風光明媚な武甲山の山脈を眺めることができる。
2.参加者:16名
○札所とは
秩父市内各所〔34ヶ所〕に点在する観世音菩薩〔観音〕を祀った寺のことであり、観世音は世音〔人びとの声〕を、観ずる〔見る,聞く〕という意味。
菩薩は如来が変身した姿。観世音菩薩とは、人びとの願いや思い、苦しみなどをひきうけ人びとを救う、菩薩に姿を変えた如来様のことである。
○秩父札所の起こり
縁起によると文暦元年〔1234年〕性空上人をはじめとする13人の賢者が秩父霊場を巡拝し、札所を設けたと言われている。
○秩父札所は33ヶ所から34ヶ所になった
現在は34ヶ所ある秩父札所ですが、もとは33ヶ所でした。33とは無限を意味する数字で観世音菩薩が33の姿に変身して(権化という)ひとびとを救うことから33ヶ所になったと言われている。後に西国札所33ヶ所、坂東札所33ヶ所と秩父札所を合わせて百観音霊場とするため秩父を34ヶ所にした。
秩父鉄道の大野原駅を10時5分に出発した。空は快晴。風もなく穏やかな行楽日和である。秩父路は道幅が狭く車の往来も多い。大野原駅から歩くこと20分で龍石寺に着いた。
縁起によると文暦元年〔1234年〕性空上人をはじめとする13人の賢者が秩父霊場を巡拝し、札所を設けたと言われている。
○秩父札所は33ヶ所から34ヶ所になった
現在は34ヶ所ある秩父札所ですが、もとは33ヶ所でした。33とは無限を意味する数字で観世音菩薩が33の姿に変身して(権化という)ひとびとを救うことから33ヶ所になったと言われている。後に西国札所33ヶ所、坂東札所33ヶ所と秩父札所を合わせて百観音霊場とするため秩父を34ヶ所にした。
秩父鉄道の大野原駅を10時5分に出発した。空は快晴。風もなく穏やかな行楽日和である。秩父路は道幅が狭く車の往来も多い。大野原駅から歩くこと20分で龍石寺に着いた。
○19番 飛淵山 龍石寺(ひえんさん りゅうせきじ)
弘法大師が千手観音像を刻み、村人達が悪龍を退治しようと観音様に念じたところ龍を退治してくれた。村人たちは御堂を建て、千手観音を安置した。これがこの寺の始まりと言われている。
また、岩石の間から龍が立ち上がり雨を降らせたことから、龍石寺と呼ばれるようになったとも云われている。
この寺は、札所中で最古の建造物と云われている。寺自体が水成岩の岩盤の上に建っている。
○20番 法王山 岩之上堂(ほうおうさん いわのうえどう)
昔は、願上寺といわれ大伽藍の寺であったが、永禄の乱(1546・1569)により焼かれ、御本尊は仮堂に安置されていた。その後、この村の打田武佐衛門慰政勝によって観音堂が建てられた。
藤原時代の作といわれる本尊の聖観音像を安置する宮殿形の厨子は、観音開きの扉の裏側に、日天、月天、風神、雷神と共に極彩色で三十三観音の彫刻がある。
秩父札所中唯一、開設以来の番付と所在地を保持する札所である。
当寺は荒川に臨む断崖の上にあり、土間に入れるようになっているので、須弥壇、観音様が間近に仰げる。又旧家の内田家個人持ちの観音堂である。
秩父札所中唯一、開設以来の番付と所在地を保持する札所である。
当寺は荒川に臨む断崖の上にあり、土間に入れるようになっているので、須弥壇、観音様が間近に仰げる。又旧家の内田家個人持ちの観音堂である。
○21番 要光山 観音寺(ようこうさん かんのんじ)
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂、大和武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久を、東国平定を祈り、鏑矢を納めたから矢之堂とも呼ばれている。
また、こんな由来話もある。その昔、行基菩薩がこの地を訪れ、ここ八幡の社地に聖観音像を刻み祀ろうとした。これを伝え聞いた悪鬼どもが、観音像の開眼の日に火の雨を降らせて妨害した。その時、白馬にまたがった八幡神が現れ神矢を打ち払ったという。
今でも、「矢の根」が寺宝とされている。
寺の背後には長尾根丘陵が続く。風光明媚な武甲山の山脈を眺めることができる。
観音寺の前の道を南へ向かう
長閑な田舎道である。陽は燦々とふりそそぎ、風もない
歩いていると、上着が邪魔になって来る
道の左側に大きなお地蔵さまが見えて来た
お地蔵さまの前を左に曲がる
間もなく、童子堂だ
○22番 華台山 童子堂(かだいさん どうじどう)
この寺は正式には「栄福寺」という名だが、子供にまつわる伝説が次々に生じ、今の「童子堂」と云う呼び名が有名になったそうだ。
参道入口の仁王門の左右の格子の中に安置されている仁王像は、童子堂の名にぴったりのユーモラスな表情をしている。
童子堂の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行した時、山奥の華台山から観世音を観請し祈祷したところ、疫病は治まった。以来子供の病気一切に霊験あらたかだというのでこう呼ぶようになったと言われている。
この寺は正式には「栄福寺」という名だが、子供にまつわる伝説が次々に生じ、今の「童子堂」と云う呼び名が有名になったそうだ。
参道入口の仁王門の左右の格子の中に安置されている仁王像は、童子堂の名にぴったりのユーモラスな表情をしている。
童子堂の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行した時、山奥の華台山から観世音を観請し祈祷したところ、疫病は治まった。以来子供の病気一切に霊験あらたかだというのでこう呼ぶようになったと言われている。
また、こんな物語も残っている。
讃州(香川県)に、ある農家の主人がいた。主人は金持ちであったが、飢えた行脚僧に食事を恵まなかった。その罰として、主人の息子は犬に変えられてしまった。罪を悔いた主人は、四国、西国、坂東の各霊場をまわり、童子堂まで来て詣でたところ、息子は犬から人間に戻れたそうだ。下の写真がその物語の絵馬である。
○23番 松風山 音楽寺
天長年間(824~834)、慈覚大師が巡行した際、この地で聖観音を刻んだ。安置する場所を探し山道を行くと、多数の小男鹿(牡鹿)が道案内をした。と云う伝説がある。
音楽寺と云う寺の名前は、松の梢を吹く風の音から生まれたそうだ。
近年、音楽に関する願いごとをかなえてくれる寺として、新人歌手や、スター歌手が、ヒットが出るようにと祈願に来ることで知られている。
音楽寺と云う寺の名前は、松の梢を吹く風の音から生まれたそうだ。
近年、音楽に関する願いごとをかなえてくれる寺として、新人歌手や、スター歌手が、ヒットが出るようにと祈願に来ることで知られている。
秩父市街地や武甲山をはじめ秩父連山が一望できる。