竹間沢車人形

日   時:3月17日(日)
参加人数:14名
場   所:竹間沢公民館ホール
私たちは、三芳町郷土芸能保存協議会主催の「郷土芸能体験教室発表会」を見学に出かけた。
所沢から秋津、新秋津、北朝霞、朝霞台を経由し、みずほ台で下車した。
みずほ台駅からは、商店や通行人に道を聞きながら竹間沢公民館に向った。歩くこと、およそ20分。
「郷土芸能体験教室発表会」は、三芳町郷土芸能保存協議会が次世代を担う若い力に郷土芸能を伝承していく事業として行っているもので、出演者の殆どが小学生のようだった。
13時に開演し、最初は竹間沢子どもはやし、北永井子どもはやし、子ども里神楽、藤久保子どもはやし、上富子どもはやし等が上演された。

竹間沢車人形は、保存会が主催するワークショップの成果発表と云うことのようだ。
出演している子ども達は、「おはやし」や「神楽」を演じた児童と比較すると、やや高学年の子ども達だ。
現代風の言葉で物語が朗読され、それに合わせて輛輻車に乗った黒子により人形が操られ芝居が進行すると云う仕掛けになっていた。(本来は、浄瑠璃を用いて語られるものと思う)

車人形は、文楽人形と似た大形の人形芝居である。文楽人形が三人で操ることに対し、車人形は、輛輻車にまたがつて一人で人形操作をするところに大きな特徴がある。そのため、一人で操るという簡易さと速い動きが可能となり、豪快な立ち回りを演じることが出来る。

そもそも、車人形は、江戸時代の天保年間(1830~1843)に、西川古柳によって創案されたもの。
竹間沢に人形芝居が伝わったのは、江戸時代末の安政年間(1854~ 1860)。
神楽師前田左近のもとに西多摩郡二宮村(現あきる野市)のテイが嫁入りしたことがきっかけである。テイの父親・古谷平五郎は人形芝居の座元で、説経浄瑠璃六代目・薩摩若太夫であった。テイも自ら説経を語り、人形芝居用具を持つて嫁入りした。左近は、テイの実家の協力で人形芝居を習得し、「吉田三芳」を名乗り三芳座を旗揚げした。これが、「竹間沢車人形」の始まりである。
明治年間には盛んに興業が行われ、入間郡を中心として埼玉県内各地や東京都多摩地方、遠いところでは群馬県伊勢崎や千葉県成田・三里塚、さらには神奈川県江ノ島・鎌倉方面へと足をのばすほどの隆盛ぶりだった。
しかし、大正年間になると映画など他の娯楽に押され、徐々に興業の数は減り、いつのまにか人々の記憶からも遠いものになつてしまった。

再び「竹間沢車人形」が脚光を浴びるのは、昭和46年に埼玉県教育委員会が実施した人形芝居用具緊急調査によって、人形芝居の用具がほとんど欠損することなく発見されたことによる。その翌年には約50年ぶりに再演され、人々の注目を集めた。
その道具類は埼玉県有形民俗文化財に指定され、また人形操作や芝居は、町の無形民俗文化財に指定されている。
復活した車人形は、保存会の人々によって守り続けられている。
演目も、現在では、古典のほかに新作にも挑戦し、公演の依頼が多数寄せられているそうだ。
                                                    【担当:3班】
                         【参考文献:三芳町教育委員会・三芳町郷土芸能保存協議会資料他】