水天宮と深川界隈散策

平成25年2月16日(土)晴
9時30分所沢駅集合、15名参加 徒歩約9km
<散策コース>
池袋駅~(丸ノ内線)大手町~乗換(半蔵門線)水天宮前駅下車~水天宮~隅田川大橋~隅田川テラス~萬年橋~芭蕉庵史跡展望庭園~芭蕉稲~芭蕉記念館~昼食みやこ~清澄庭園~法乗院えんま・・・堂~深川不動堂~富岡八幡宮~(東西線)門前仲町駅乗車~乗換(半蔵門線)大手町~池袋駅

             【深川界隈マップ】
■日本橋水天宮
水天宮前駅を降りて、直ぐ近くの高台に水天宮は鎮座している。権現造りの社殿は、昭和42年11月に建立。主祭神は安徳天皇。水徳の神として、安産や水難除け・火難除けにご利益がある。
江戸後期の文政元年(1818)、久留米藩主の有馬家が参勤交代のために福岡県の久留米本宮から江戸屋敷に分祀したのが始まりといわれている。
水天宮の起源
壇ノ浦で敗れた平氏、その所縁の安徳天皇は、祖母の二位の尼に抱かれて建礼門院とともに入水。戦いの後に、建礼門院に仕えていた官女・伊勢が安徳天皇をはじめ平家一門の霊を慰めるために、筑後川の辺りに祠を建てて御霊を祀ったのが起源とされている。(水天宮由緒記)
              【江戸に鎮座して200年の水天宮】
水天宮と腹帯
水天宮は水難除けの神だったが、社殿の鈴紐をもらった妊婦がそれを腹帯にしたところ安産だった。
そこから水天宮ではお産が軽い犬にあやかって、戌の日に安産の祈祷を込めた鈴紐を腹帯として渡すようになったという。(水天宮由緒記)

■隅田川の遊歩道(テラス)を歩く
水天宮からビルの谷間を抜けて隅田川大橋に出る。
下を流れるのはもちろん隅田川。昔は、住田川、角田川とも書き、場所によって、大川、両国川、みやこ川、浅草川などの呼び名もあるという。それだけ深く江戸の人々の生活に溶け込んでいたことかもしれない。
橋を渡ると隅田川と荒川に挟まれた江東区の深川で、いわゆるゼロメートル地帯。
現在は6mを超える護岸があるが、かつては高潮や台風で街が水面下となり、大水害に見舞われている地区である。
隅田川大橋の袂から隅田川遊歩道に降りると遊歩道をいつ越えてもおかしくないぐらい隅田川は満々と水を湛えていた。強風に煽られながら上流へしばらく歩く。
【隅田川大橋の一つ上流に架かる女性的・優美な清洲橋。ドイツ・ケルンの吊橋がモデルになっている】
清洲橋の下を過ぎるとまもなく右側に、徳川家康が千葉の行徳から江戸に塩を運ぶために開削したという小名木川の河口が見えてくる。遊歩道から小名木川に架かる萬年橋を渡る。芭蕉庵史跡展望庭園と芭蕉稲荷は、隅田川と小名木川の交わる一角にある。
赤穂の浪士も通った小名木川に架かる萬年橋。橋の袂の一角に史跡展望庭園はある。
最も眺望が素晴らしいといわれている萬年橋の袂から清洲橋方向を望む。
広重はここから同じ方向を見て富士山を描いている。手前は小名木川河口。

■松尾芭蕉の故地
芭蕉庵史跡展望庭園
木戸をくぐり、石段を登っていくと隅田川が一望できる小さな庭園に出る。隅田川と小名木川に隣接した展望庭園で、四季折々の水辺の風景が楽しめる。庭内には芭蕉翁座像や芭蕉庵のレリーフを配し、往時を偲ぶことできるようになっている。
芭蕉稲荷
この稲荷は、大正6年(1917)9月の台風の高潮の後「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土した場所として、地元で芭蕉稲荷として祀っている。
大正10年、東京府はこの場所を「芭蕉翁古池跡」と指定している。
江東区芭蕉記念館
萬年橋通りを7~8分北方向に歩くと、芭蕉記念館に着く。
江東区が芭蕉ゆかりの地に芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年に芭蕉記念館、平成7年に芭蕉庵史跡展望庭園を開園した。記念館には、芭蕉遺愛と伝えられる「石の蛙」や芭蕉をはじめ江戸時代から近現代までの俳句文学資料が展示されている。展示室の他、図書室、研修室を備えている。
深川(村)と芭蕉
深川(村)の由来は、慶長元年(1596)大阪摂津から来て、この地を開拓していた深川八郎右衛門は、鷹狩りに来た徳川家康から姓を村名にすることを許され、深川の名をつけたことが始まりといわれている。
延宝8年(1680)、桃青と号していた芭蕉は、日本橋からまだ開発途上の閑静な深川に移り住んだ。その草庵は、門人杉山杉風所有の生簀の番小屋であったともいわれている。
そこに門人李下の贈った芭蕉の株が良く繁茂したことから、草庵の名を芭蕉庵とし、自らの名も芭蕉と名のる。以後、没年の元禄7年(1694)に至る15年間に、ここ深川を拠点として「古池や 蛙飛びこむ 水の音」などの名吟の数々を残した。
また、ここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」などの紀行文を著している。
芭蕉没後、この芭蕉庵は武家屋敷となり幕末から明治にかけて消滅してしまった。          
                                【江戸名所図会に描かれた芭蕉庵】⇒

■深川めしで昼食
「老舗みやこ」の深川めし
あさり・ネギ・油揚げを昆布だしで煮て、その煮汁で米を炊き込んだ自慢の味は1500円。
食事を終えて、深川には相撲部屋があるということで清澄通りから小名木川の高橋を渡り路地に入る。
大嶽部屋、北の湖部屋、尾車部屋、錣山部屋などの部屋前を通るが、静かで人通りも無く残念ながら力士との出会いはなく、清澄庭園に着いた。
 
■回遊式林泉庭園の清澄庭園
清澄庭園は、はじめ江戸の豪商紀ノ国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられている。
その後、享保年間(1716~1736)に下総国、関宿の城主・久世大和守の下屋敷として用いられてきた。
明治11年(1878)、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が付近の土地を合わせて約3万坪を買収し「深川親睦園」と称し、社員の慰安や内外貴賓の接客などに使用した。
大正13年に東京市に寄付された。昭和54年には都の名勝第1号に指定され、新東京百景にも選ばれている。(清澄庭園資料)
池には隅田川から水を引き、東京湾の潮の干満により庭の趣に変化を持たせた大泉水(現在は雨水)、築山、全国から取り寄せた名石を配した明治の代表的な庭園である。
清澄庭園を見学したら清澄通りを南の方向に歩く。仙台掘川に架かる海辺橋を渡ったところに採茶庵跡(さいとあんあと)がある。
採茶庵は芭蕉の門人・杉山杉風の別荘で、芭蕉は深川の草庵を人に譲り、ここから「おくのほそ道」の旅に出発したといわれている。
清澄通りをさらに南に進んでいくと左側に法乗院・深川ゑんま堂はある。

■深川のゑんま様
寛永6年(1629)創建、開山は覚誉僧正。
真言宗豊山派、本山は大和長谷寺。
縁日・毎月1日・16日
“除けと封じの深川ゑんま堂”として古くから江戸っ子に親しまれてきた。
現在のゑんま坐像は、平成元年に建立。ハイテクゑんま様と呼ばれ、賽銭を投入すると直接、ゑんま様から祈願の内容に応じた説法を聞くことができる。
「地獄・極楽の絵解き口上」 
本堂の一階には、天明4年(1784)に江戸の宗庵絵師によって描かれた16枚の地獄極楽図がある。16日は、ゑんま様の縁日ということで通称“麻布十兵衛”の地獄・極楽の絵解き口上があり、これを聞いた。人間の輪廻転生である。
「どんな人でも冥土いけば、閻魔大王の裁きを受ける。初七日から七・七忌、一周忌、三周忌と次々に亡者を受け取り、その罪業を審査して未来に生れるところを定める。決まる。」(要約)という。
輪廻転生、因果応報の絵解き口上をきいて、今の年では遅いのかもしれないが、みんな “一日一善”を決意して深川不動堂に向かった。

■深川不動堂(真言宗成田山東京別院)
元禄16年(1703)、江戸町人の要望で成田山の御本尊(不動明王)の出開帳が富岡八幡宮の別当永代寺境内(現・深川公園)で行われた。以来毎年の出開帳で多くの江戸町人の人気を集めた。これが深川不動堂の起こりである。
成田山東京別院・深川不動堂の参道は通称“人情深川ご利益通り”と呼ばれている。
毎月1・15・28日に縁日が開かれて賑わいを見せるという。
富岡八幡宮の別当寺永代寺は、明治になって神仏分離で廃寺となり、境内は深川公園になっている。明治14年(1881)現在の場所に成田山東京別院・深川不動堂として本堂が作られたが、その後の震災などで焼失してしまった。
現在の本堂は昭和26年(1951)に千葉県印旛沼にあった龍腹寺を移築したもので、「お願い不動尊」が安置されている。
私たちがお参りをした本堂の隣には、外壁に梵字をちりばめた建物があったが、開創310年を期に平成23年(2011)に完成した新本堂だという。

■富岡八幡宮
御祭神 応神天皇(誉田別命)外8柱富岡八幡宮(深川八幡)は、江戸初期・深川干拓の無事推移を願い、横浜・富岡八幡宮(源氏の守本尊)を分社したものと伝えられている。徳川将軍家の手厚い庇護を受け、江戸庶民にも「深川八幡」として親しまれてきた。
富岡八幡宮は、勧進相撲発祥の地として知られる。
貞享元年(1684)の富岡八幡宮の初興行は、その2年前の火災で焼失した本殿の再建が目的だった。その後、寛政3年(1791)から両国の回向院境内で興行されるようになる。
1世紀以上にもわたって富岡八幡宮で江戸相撲が行われた、このことは相撲史に残る大変な出来事であったに違いない。
境内には、江戸三大祭(山王祭、神田祭、八幡祭)の一つ「(深川)八幡祭り」の神輿の展示、横綱・大関の力士碑、力持石、伊能忠敬など深川ゆかりの石碑が多数ある。

■深川の中心地門前仲町
清澄通りを歩いていたとき、赤札堂の看板が見えた。
その時、遠い昔を思い出すような懐かしさを感じたが、現地の深川地域イベント情報誌で、赤札堂は深川門前仲町が発祥地と知ってビックリ、創業から96年続いている老舗と知り更にビックリ。
また、商店街には、チェーン店などなく、1対1で商売していた時代には会話も弾み、賑やかで富岡八幡宮の縁日もガマの油売りやバナナのたたき売りなどで、今よりもっと活気があった、と門前仲町の変遷ぶりを知らされた。
元禄の時代、民心の気持ちも、世の中も安定した時代背景の中で、信仰心が厚く、祭り好きな江戸庶民の心をつかんだのが深川不動堂の御開帳、富岡八幡宮の勧進相撲・八幡祭りであった。街の発展への礎になり、深川門前仲町が生れて、そして今がある。変貌を遂げていく東京、そこで下町情緒や江戸の歴史の一端を懐古できた深川散策だった。
【大河原功氏投稿】