川越街道の大井宿とその周辺を散策

日時:5月24日(金)
行程:所沢⇒本川越駅徒歩⇒東武東上線・川越市駅⇒ふじみ野駅下車
ふじみ野駅西口・・・(20分)・・・角の常夜灯・・・(10分)・・・大井町旧役場・・・(5分)・・・木戸門跡・・・(5分)・・・バス停・・・(バス5分)・・・萩住宅(下車)・・・(10分)・・・「みよしそばの里(昼食)」・・・(5分)・・・船津家(長屋門・尾張藩鷹場標石)・・・(15分)・・・織部塚・・・(15分)・・・徳性寺・・・(10分)・・・大井宿(本陣跡、木戸門跡、里程標)・・・(10分)・・・本村遺跡・・・(10分)・・・復元大井戸・・・(5分)・・・弁天の森・・・(15分)・・・東台遺跡(古代の製鉄炉)・・・(5分)・・・八重の観音・・・(15分)・・・ふじみ野駅(16:00頃)
東京と長野県松本市を結ぶ国道254号は、この辺りでは通称「川越街道」と呼ばれている。江戸時代に江戸と川越を結んだ街道が元になっているからである。
江戸時代初期、川越藩により、もともとあった江戸道を真っすぐに引き直し、村々を新道沿いに移転させて宿場とした。
中山道の板橋宿から分かれるこの街道には、川越までの間に上板橋・下練馬・白子・膝折・大和田・大井の六つの宿場があった。
ふじみ野市南部にあった大井宿には大名の宿泊する本陣があり、旅龍や店舗が多く軒を並べ「大井町」と呼ばれるほど栄えたといわれている。宿場の南北に木戸があり、朝夕に開閉していた。宿場跡に当時の建物は残ってはいないが、木戸跡と本陣跡、里程標のあった場所に標柱が建っている。
宿場は大名の参勤交代のほか、公用の物資運搬などの中継地点の役割もあった。人手が要るときは周辺の村々に「助郷」と呼ばれる人足の供出が課せられたが、給金は薄給で、村々にとっては負担でもあった。例えば大井小学校の北側には富士見市(旧勝瀬村)との境界が東から延びて川越街道を含んでいるが、村内に街道があることで助郷を納得させるために村境を調整したためともいわれている。宿場は周囲の村々の協力があってこそ成立していたのである。
明治の初めに旧大井町は大火に見舞われ、多くの家屋が焼失してしまった。そのためか明治22年に苗間村・亀久保村・鶴ヶ岡村と合併すると、町ではなく「大井村」になった。再び大井町を名乗るのには昭和41年の町制施行まで待つことになり、以後、平成17年のふじみ野市の成立まで続いている。(富士見野市教育委員会生涯学習課著)
〇角の常夜灯
川越街道と地蔵街道の交差するこの地を「角」と呼んでいる。
この常夜灯は、享和2年(1802)に建てられたもので、明治30年 (1898)には笠石と台石部分が再建されている。
当時は街道の中央に置かれ、夜になると火袋に火を上げて農作物の収穫を祈った。
道標もかねており、ここを起点に大山(阿夫利神社参詣)に向かう道で、地蔵街道とも呼ぱれ元禄7年(1694)に三富新田開拓のために聞かれた道で大山参拝のほか富の地蔵様へのお参りにも利用された。



〇大井町旧役場
昭和12年(1937)1月18日工事費約5千円、木造2階建て総延坪60余りで外部は鉄骨コンクリート造りのモダンな庁舎であった。平成14年(2002)2月に国の有形文化財として登録。

たまたま、市の職員が館内におり、私たちに声を掛けてくれた。事情を話すと、快く館内を案内してくれた。


〇木戸門跡
江戸時代、江戸をはじめとする城下町や宿場などの出入り口には、治安維持を主な目的として夜間や非常時に閉鎖される警備が行われていた。言い伝えによれば、大井宿にも南北を貫く道幅6メートル余(3間半)の川越街道の入口2ヶ所に木戸が設けられ、その傍らに道中の安全を祈るために石の地蔵が建てられていた。(現在、徳性寺にあり)大井宿の木戸について定かではないが両開きの左右に緊急時の通行用のくぐり戸を設ける形式であったといわれている。

〇みよしそばの里
地元では大変評判のよい蕎麦処である。
私は、この店には初めて行った。建物は古材を使用した手造り感がある内装ではあるが、決して綺麗だとは云えない造りである。
トイレも飲食店のトイレと云うよりも農家のトイレと云った感じであった。
この店がはやっていると云うからには、よほど蕎麦は美味いのだろうと期待して蕎麦の出来るのを待った。


〇船津家
船津家は江戸時代には北永井村の名主を務めるとともに、尾張藩鷹場の預かり案内役、所沢寄場組合の大惣代、明治時代初期には藤久保連合戸長を務めるなど、この地域の重職を担ってきた。船津家長屋門、鷹場標石、古文書など、当時の歴史を知る文化財が多く残されている。ことに、尾張藩鷹場関係文書、所沢寄場組合関係文書や近代初期の連合戸長時代の古文書などは三芳町の近世、近代の歴史を知る貴重な資料として特筆される。
〇織部塚
川越街道の西側を街道に並行して南北に走る諸道の脇にある。
戦国時代、後北条氏のもとで村の開拓に尽くした大井4大衆の一人、新井織部を埋葬し祀ったものと伝えられている。
塚の松が枯れたので、これを切り売ってしまった。このとき切った者も買った者も突然死を遂げたという。以後、塚の崇りを恐れ近寄るものがいなかったと、伝えられている。
現在、塚上には織部の末裔が幕末期頃建立したといわれる日神皇と刻んだ石碑と松があり、村の開拓史を今に伝えている。


〇徳性寺
川越街道大井宿の母体となった室町時代の集落跡が東原小学校一帯から発掘されていることから、天龍山本乗院徳性寺は、室町時代、秀山律師の創建と伝えられる集落ゆかりの寺院。
川越市古谷本郷にある天台宗潅頂院の末寺。
本尊は阿弥陀如来。明治の大火で全焼したため、現在の本堂などは再建されたもので、大井弁天が安置されている。
山門は川越市の南院(現在は廃寺)から移築されたもの。(写真上左)
最近まで、埋め墓と詣り墓(墓石)を別にする両墓性の特徴ある風習が残っていた。
〇大井宿
川越街道は江戸城北の守りの川越城を結ぶ道として、また仙波東照宮への参詣路として重視される脇往還であった。
川越街道には、6ヶ所の宿場が設けられ、旅客や物資を次の宿場まで運ぶ人馬が用意されていた。
また、本陣や旅寵なども設けられていた。
本陣は戦国時代大井郷の開発にあたった新井家に置かれた。
大井宿は明治14 ・ 15年、明治25年の3度に及ぶ大火で、本陣も宿場町の風情も焼失してしまった。
今は旧街道の一里塚として植えられたエノキの大木と、所々の老木が当時を偲ばせるだけとなっている。
〇復元大井戸
江戸時代後半に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、「大井村(宿)」の項に、「昔古井などありて村名も此井より起りし旧地なるにや、されど其つたえを失せり」と記されているように、「大井」の由来となった井戸として知られた大井戸も、文政期にはその名を「おいど」という小字に名を残すだけで、井戸の所在地は不明になっていた。
昭和50年(1975)、「おいど」近くを流れる砂川掘りの改修工事で平安時代の井戸の遺構が発見された。出土した遺物でこの井戸が大井戸であることが確認された。「大井戸」も[堀兼之井」のような漏斗状の井戸と考えられている。
〇東台遺跡(古代の製鉄炉)
今から1200年程前、奈良時代から平安初期に作られた製鉄炉を移築・保存したもの。マンションを建てる前に発掘調査で見つかった炉を切り取り設置した。
古代の鉄造りは、粘土で直径1メートルほどの円形型の炉を作り、原料の砂鉄と木炭を投入し、長時間燃やし続けて鉄の塊を生産していた。炉を良く見ると、高温で溶岩のように溶けた炉の壁や壁に残った錆びた鉄を観察できる。
製鉄炉を長時間効率よ<燃やすためには、酸素を炉の中に送り続けるための送風装置が必要だが、足を使って空気を送る「踏みフイゴ」の跡も見つかっている。幅1m、長さ3m程の長方形の浅い穴で、左右が傾斜している。また、フイゴから炉の中へ酸素を送る管「羽口(はぐち)」の跡も残っている。
・製鉄炉‥・7基
・燃料の木炭を作る窯跡‥・9基
・炉を造るための粘土を採掘した穴跡‥・4ヶ所
・鍋や羽釜を鋳物で作る時に使用する鋳型・‥多数
〇八重の観音
幕末から明治にかけ、阿弥陀堂(上の写真奥)の堂守をしながら地域の人に読み書きや裁縫を教えた信州上田出身尼僧、八重の遺徳を慕って土地の人が造像したもの。(上の写真手前)
この墓地には多くの板碑がある。板碑信仰の末期にあたる戦国時代に作られたものがあった。(1554頃)大井郷土資料館で保存している。
(下の写真左が阿弥陀堂。右が堂内に安置されている阿弥陀像)
今日は暑かった。その中を朝から良く歩いた。昼食のそば屋にはビールがないと云うことで、ズ―と我慢をしていた。
先週土曜日の帰り際に「清元」女将さんに話しておいたので、約束通り立ち寄った。
ビールが美味かった!!
【参考書館:歴史散策クラブ3班作成「大井宿散策資料」他】