難波田城公園から水子貝塚公園を歩く

日 時:5月18日(火)
コース:所沢駅8:45集合
所沢駅発8:52⇒秋津8:55⇒新秋津9:10⇒北朝霞/朝霞台9:3⇒鶴瀬9:40/鶴瀬発市内巡回バス9:50⇒難波田城公園着10:20
難波田城公園11:30⇒(徒歩)⇒水子貝塚公園11:30(昼食)
水子貝塚14:00⇒(徒歩)⇒みずほ駅14:20頃⇒朝霞台⇒北朝霞⇒新秋津⇒秋津⇒所沢15:00着
〇難波田城公園
難波田城は中世に富士見市内を本拠として活躍した難波田氏の居城跡である。昭和36年に埼玉県旧跡に指定された。
荒川低地の一角に築かれた平城で規模は50,000平方メートル以上と推定される。
難波田城公園は平成9年から3カ年をかけて整備したもの。
園内には
★城跡ゾーン:難波田城資料館や城跡
★古民家ゾーン:市内の古民家を移築したものがある。
☆難波田城祉
富士見市東部の荒川と新河岸川の間の自然堤防上にある、難波田氏の居城である。
難波田氏は、鎌倉時代に武蔵七党の一つである金子氏の一族である。金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。「新編武蔵風土記稿」には築城から廃城に至るまでだけでなく具体的に城郭の構造にも触れられており、「小田原編年録」の文化9年(1812年)の古図にも描かれている。
河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していった。しかし小田原征伐の武州松山城落城と共に廃城となった。
★水堀と土塁
難波田城は、三重の堀と土塁に囲まれてた平城であった。
★追手門
城の正面入り口。冠水門に屋根をかけた棟門形式の門である。
★本城門
曲輪1(本城)の入口の門である。冠水門と云う形の門。
☆十玉院墓地
城跡ゾーンから古民家ゾーンに向かう途中に「十玉院墓地」と云う案内板と墓地があった。
案内板には「十玉院は、中世に栄えた修験道寺院だが、戦国時代に一時衰えた。江戸時代前半に難波田氏の縁者という理由から幕府が難波田城跡に移転・再興することを許可した。ここの墓塔は十玉院代々の院主やその関係者のもの。明治5年(1872)の修験道廃止令によって十玉院は廃寺になった。(後略)」と記されていた。
「廻国雑記」で所沢を紹介した聖護院道興准后(ショウゴイン ドウコウ ジュゴウ)は十玉院に滞在し、親戚関係にあった大石信濃守の館を何度か訪れていることが記されている。当時の十玉院の寺領は、大塚(志木市)や水子を中心とした地域だと云われているが、当時を偲ぶ歴史の一コマに出合ったのは喜ばしいことだ。
☆古民家
★旧金子家住宅:市内水子に建てられていた民家。農家の傍ら油商を営んでいたため、商家の造りもあわせもっている。市指定文化財。
★旧大澤家住宅:市内東大久保に建てられていた民家。式台や奥座敷など名主の家としての佇まいを残している。市指定文化財。
〇水子貝塚公園
☆水子貝塚
富士見市は、武蔵野台地と荒川低地に広がり、縄文時代には低地は海であった。水子貝塚は、そうした海の幸を求めて集まった人々が残した貝塚のひとつである。
昭和12年(1972)の発見以来、数回の発掘調査で縄文時代前期(約6000~5500年前)に竪穴住居の後に捨てられた貝塚が小貝塚を形成し、環状に分布する集落跡であることが明らかになった。これらの成果から昭和44年(1969)に国史跡に指定された。
園内に散らばる白いエリアはその下に未発掘の貝塚があることを表している。
☆竪穴住居跡
竪穴住居跡に入りボランテア・ガイドの説明に耳を傾けた。
下の写真が15号住居跡である。住居内には縄文時代の人々の暮らしの様子を再現している。
住居跡からはシジミを中心にカキやハマグリが混じる貝塚が発見された。貝塚の下からは30代の女性の人骨が手足を曲げた姿で発見された。
【参考文献:富士見市立難波田城資料館資料/富士見市立水子貝塚資料館資料 他】