源頼朝ゆかりの地を訪ねる

日 時:9月14日(土)8:15所沢駅2F改札口内集合
8:30発横浜中華街行きに乗車、横浜駅で乗換えて鎌倉へ
コース:鎌倉駅⇒銭洗弁財天⇒化粧坂切り通し⇒源氏山公園⇒壽福寺⇒若宮大路⇒鶴岡八幡宮⇒大蔵幕府跡⇒荏柄天神社⇒頼朝の墓⇒永福寺⇒鎌倉駅

○鎌倉駅西口
現在の駅舎と旧駅舎にあった時計塔
鎌倉駅に着くと雨が降っていた。天気予報では晴れ時々曇りだったのだが、台風18号が発生している影響だろう。
鎌倉駅西口でボランティアガイドと待ち合わせ、10時30分に出発した。雨はやんでいた。駅から諏訪神社の前を通り佐助神社に向って歩く。途中、佐助神社の鳥居が山中に見えた処で、三叉路を右に進むと間もなく銭洗弁財天に行く急な坂道に出た。

○銭洗弁財天
もと扇ガ谷八坂神社の末社。昭和四十五年(1970)「銭洗弁財天宇賀福神社」として独立。
文治元年(1185)巳の年の巳の月の巳の日、源頼朝の夢枕に宇賀福神が立ったことに始まるとされる。長く続いた戦乱が終わつたとはいえ苦しい生活を強いられていた民の加護を日夜祈っていた頼朝に、宇賀福神は「西北の仙境に湧き出している霊水で神仏を祀れば、人々は自然に信仰心を持ち、国内も平穏に治まるはず」と告げた。頼朝はお告げの通りに泉を発見、岩窟を掘らせて宇賀福神を祀り、その水で神仏の供養を続けているうち、国は平穏を取り戻し、民の暮らしも豊かになつたとされる。
文治元年は平家滅亡の年である。
五代執権北条時頼も頼朝のこの志を継ぎ、正嘉元年(1257)信仰を促進、銭洗の効能を実践して見せ、治政に役立てた。
☆宇賀福神(顔は老人(体は蛇)
人間に福徳をもたらすと伝えられる神々を総称したもので、食物神、農業神ともされる。
その教えは、「明浄」「正直」を基本に据えた生き方にある。財宝を洗うことにより、わが身わが心の不浄を洗い清め、それによつて初めて福徳利益がもたらされる。

○化粧坂切り通し
藤沢から武蔵方面に抜ける重要な道であった。書物により表記が異なり、化粧・仮装・気生・気和飛などがある。地名の由来は、討ち取った平家の武将を化粧し首実検したところだからだとか、近くに化粧をした遊女がいたからだとか言われている。
また、新田義貞が鎌倉に攻め入る際に激戦が行なわれ、幕府軍を破った場所でもある。

○源氏山公園
永保三年(1083)源義家が奥羽(東北地方)に向かう時、この山上に源氏の白旗をたてて戦勝を祈ったという伝説から、源氏山とか旗立山とか云われるようになつた。この源氏山を切り開いて昭和40年(1965)に造つたこの公園は、自然公園として多くの市民に親しまれている。芝生の中央広場に、高さ2メートルほどの源頼朝像が建っている。頼朝が鎌倉入りしてから800年の記念事業の一つとして造られたものである。

○壽福寺
【山号寺号】亀谷山(キコクザン)壽福寺金剛禅寺【宗派】臨済宗建長寺派【創建】正治二年(1200)【開山】明庵栄西【開基】北条政子【本尊】宝冠釈迦如来(籠釈迦)、脇侍:文殊・普賢菩薩【仏殿】寛文4年(1664)再建【総門】江戸初期のもの
頼朝の死後菩提を弔うため、政子は栄西を開山に迎えて、この寺を創建。三代将軍源実朝もしばしば訪れた。やがて、堂塔および塔頭十四を擁する大寺となつた。
_栄西は、日本に最初に臨済宗を伝えた。又、お茶の苗を中国(宋)から持ち帰つたことでも知られる。寺宝の「喫茶養生記」(国重文)は、宋で学んだ栄西がかの地で見聞した茶の効用を記し、実朝に献上した著書である。この本は、わが国で初めて茶の効用を説いたもの。持ち帰つた苗は、高雄と狭山に植えられたと云う。
☆墓地
やぐらの中に源実朝(左)や北条政子(右)の墓といわれる五輪塔がある。

○若宮大路
頼朝は、規模は小さいが京都に似た町造りを目指したと思われ、八幡宮に通じる参道、若宮大路の幅員は14丈(42.42m)と京都朱雀大路の2分の1であり朱雀大路を手本にして造られたと考えられる。若宮大路は寿永元年(1182)2月、政子の安産祈願も兼ねて造られ、中央に二条の堤を築き、葛石を置いたので置石とも言われた。段葛という名称は江戸時代以降である。

○鶴岡八幡宮
【祭神】応神天皇、比売神、神功皇后(応神天皇の母)
宇佐神宮(大分県)や石清水八幡宮(京都府)と共に、全国の八幡宮を代表する大社。
治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入ると、先祖の源頼義が石清水八幡宮を勧請してあつた由比郷の鶴岡若官を、ここに遷座した。
建久2年(1191)町の大火により類焼したので、社殿を大臣山の中腹に造営し新たに石清水八幡宮を勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。これが本宮(上宮)で、この時若宮(下宮)も再建し、上下両宮の今の形になった。
足利氏や徳川氏等からも篤く崇敬され、社領の寄進、社殿の修造などが行われた。上宮は文政11年(1828)江戸幕府11代将軍徳川家斉に、下宮は寛永元年(1624)2代将軍徳川秀忠により修復造営された。(ともに国重文)
以前は神と仏が一緒に祀られ、八幡宮寺と呼ばれていたが、明治になつて神仏分離により現在のような神社となった。
9月14,15,16日は鶴岡八幡宮例祭。境内では子供たちの打ち鳴らすお囃子で祭りを一層盛り上げていた。また、かき氷や駄菓子などの露店なども出ていて結構な賑いであった。
☆舞殿
本宮へ上がる大石段の手前にある舞殿(下拝殿)が創建されたのは、建久4年(1193)。頼朝が征夷大将軍になった1年後の4年月の鎌倉まつりの際、ここで兄頼朝に追われる義経を恋い慕いながら静御前が「しずやしず…・」の歌を舞い、人々を感動させたと伝えられる「静の舞い」が奉納される。
☆源平池
寿永元年(1182)政子の希望で平家討伐を祈願して造営された。
☆流鏑馬道
東西260m、頼朝の造つた馬場、文治2年(1186)8月15日頼朝、西行法師に会い、兵法、和歌について懇談したと伝えられ、翌年8月15日流鏑馬を行つた。

○大蔵幕府跡
右上が大蔵幕府跡の石碑。石碑には「今を距る737年の昔、治承4年源頼朝邸をこの地に営み後、覇権を握るに及びて、政をこの邸中に聽く。所謂大蔵幕府是なり。爾来頼家、実朝を経て嘉禄元年政子薨じ幕府の宇津宮辻に遷れるまでこの地が覇府の中心たりしこと実に46年間なり」と書いてありました。現在、清泉小学校。

○荏柄天神社

【祭神】菅原道真【創建】長治元年(1104)
北野天満宮(京都市)大宰府天満宮(福岡県)とともに日本三天神の一つと云われている。鎌倉でも古い神社のひとつ。
長治元年、雷雨とともに怒りの表情の天神(菅原道真)画像が荏草郷(奈良時代からの地名)と呼ばれていた当地に降りてきた。里人が社を建ててその画像を祀ったのが当社の始まりと云う。治承4年(1180)鎌倉入りをした源頼朝は大蔵の地に御所を造営したが、この社がその丑寅に当たるため、鎌倉幕府の鬼門の守り神として崇めた。
その後も武家の信仰を集め、後北条氏康は社殿造営に協力し、徳川家康は土地の寄進を行っている。天神立像、同坐像(ともに国重文)は憤怒の表情で、「怒りの天神」の名で知られる。本殿は14世紀の室町時代の再建とされ、鎌倉では数少ない中世建造物の一つで国重文である。
☆菅原道真(845~ 903)
平安時代前期の学者、政治家。学問、書、詩文に優れ、学問の神様と云われる。右大臣にまでなったが、延喜元年(901)、政敵藤原時平の讒言で太宰権現に左遷され、失意のうちに没した。その後、災異がしきりに起こり道真の怨霊の祟りが原因とされ、霊を鎮めるためもあって、各地に道真を祀る神社が建てられた。
☆「菅公の飛梅」伝説
道真は自宅の梅を愛し、京都を離れる時「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ。すると梅の片枝が空を飛び太宰府に根をおろした。と云う。

○頼朝の墓
頼朝の墓のある場所には文治5年(1189)に頼朝の持仏聖観音像を安置した持仏堂があった。没後遺骨は持仏堂に納められ一周忌後法華堂と称された。建保元年(1213)5月の和田の乱では実朝はこの法華堂に難を逃れた。現在の頼朝の墓は江戸時代の安永年間(1770年代)に鶴岡荘厳院の住持が勝長寿院跡から層搭を持ち込み、安永8年(1779)薩摩藩主島津重豪が島津の祖で頼朝の庶子と云われる島津忠久の墓を造る際に整備したと云う。

○永福寺(ヨウフクジ)跡
永福寺は、鶴岡八幡宮寺、勝長寿院と共に、源頼朝が鎌倉に建立した三大寺院の一つである。
文治5年(1189)に奥州藤原氏を攻めた頼朝は、平泉の中尊寺などの寺院に感心し、義経、藤原泰衡を初め数万の怨霊を供養するために寺の建立を思い立った。創建は建久3年(1192)。伽藍は中尊寺の二階大堂をまねた本堂と阿弥陀堂、薬師堂の三堂が中心で、堂前には、大きな池があり、梅・桜などの木々も植えられ、壮麗な寺院だつたといわれている。
頼朝はじめ歴代将軍や政子がたびたび参詣し、境内に於いて蹴鞠、花見、歌会も催された。
しかし、応永12年(1405)火災にあって焼失。室町時代末期には廃絶してしまつた。鎌倉時代の「海道記」等によれば、本堂は二重軒の瓦葺で、両翼を張つた姿は、宇治の平等院に似て居り、ここから現在のこのあたりの地名の二階堂という呼称が生まれた。
近年の発掘調査によると、本堂の二階堂の建物跡とみられる遺構が出土し、本堂の正面は、間口19m、奥行き18m、礎石は直径1.65mもあり、その上面は柱が乗るように、平らに削られ、柱の直径が60cmもあつた大寺院であつた事が解った。本堂からの廊跡、阿弥陀堂や薬師堂とみられる脇堂、苑池等が確認され、その他寺名が入つた瓦や仏具、経筒等多数発掘された。
担当:3班 

【参照文献:NPO法人鎌倉ガイド協会資料】