鎌倉街道堀兼道と東山道武蔵路 IN 所沢

日 時:10月28日(月)
出席社:11名
集 合 新所沢駅東口10:00
コース 歩行距離≒4~5km
東口駅前⇒松葉町⇒砂川掘⇒北所沢町交差点⇒吉宗時代の開拓新田⇒馬頭観音⇒勝軍地蔵⇒念仏地蔵⇒寺子屋師匠の墓⇒(昼食)⇒柳野遺跡⇒河岸道・馬頭観音⇒足湯⇒バス停(フラワーヒル)⇒新所沢駅東口(≒15:00)
1.鎌倉街道堀兼道
1)数々の歴史のロマンを秘めた道
① 堀兼道は、新田義貞が元弘3年(1333)に鎌倉を攻略したとき、5月15日の分倍・関戸の合戦に敗れて、いったん堀兼まで退却した道といわれている。(武蔵風土記第8巻)(市史上p464)
② 堀兼道は、枝道の中で最も重要視されているルート。古来より数々の歌に詠まれた堀兼の井がある。
最近の研究で走行方向・直線性・二本の道が並行して帯状の地割りを示しているなどから、鎌倉街道以前の古代道を踏襲した道ではないかと考えられている。
古代道とは、東山道武蔵路のことで、最近の発掘調査(柳野遺跡)でこのことが明らかになった。
③ 徳川家康の亡骸が通行
駿府から日光に送られるとき、東の上遺跡辺りの道(東山道武蔵路を踏襲した上道)を通ったといわれている。その先は・・・柳原遺跡の道ということになる。
【写真右下は現在の新所沢付近を通る鎌倉街道】
2)昭和52年の浸水被害 ~砂川掘りの氾濫~
小手指地区から富岡地区へ、新所沢地区の北寄りを横断する砂川掘りは、向陽町、美原町などではしばしば氾濫を起こした。
昭和52年9月29日に関東地方を襲った台風11号の被害は市内でも甚大で、美原町や松葉町ではかつてない浸水被害となった。
3)馬頭観音
① 右側面:明治3庚午(かのえうま)年、左側面:岩岡新田神山権右衛門(※)と彫られている。この人は、この辺りで寺子屋を開いていた人と思われる。
② 馬頭観音菩薩は、頭に馬を乗せ、憤怒相の姿。馬の如く四方を駆け巡り、魔を蹴散らし承伏し、災いを食べ尽くす形相を表現。六道の中で「畜生道」の救済主。
③ 石造物としての馬頭観音は念仏供養、橋・道の供養の主導として造立。
江戸時代の後半には、馬の供養を目的に交通の難所や村の境、道の辻、屋敷内などに造立された。
4)武蔵野新田開発
① 八代将軍徳川吉宗の享保の改革。幕府の財政再建。
富岡地区では1716~36年間に次の新田が開拓された。
岩岡新田・北田新田・神谷新田・久米新田・堀兼新田、中北野新田、所沢新田など。
② 開拓者
岩岡新田は町谷の岩岡氏、北田新田は所沢村の北田氏、神谷新田は比企郡吉見町の神谷氏、久米新田は久米村の農民、堀兼新田は堀兼村の農民。
【写真は現在の農家と道沿いに整然と並ぶ農家の家々】
5)勝軍地蔵
① 左側の像は明和7年(1770)、兜をかぶり馬に乗っている。所沢新田中と彫られている。この近辺の人々よって祀られたもの。
② 勝軍地蔵は、悪業煩悩に打ち勝つ地蔵。防火の神愛宕神社の御神体。防火・鎮火のご利益また、武運を武士が信仰した地蔵さま。
③ 右側は天明2年(1782)の年号が刻まれ、流行り病で亡くなった子供・老人の供養に建てられたという言い伝えが記されている。
6)岩岡村念仏講中
① 岩岡の念仏地蔵。年号は、安永7年(1778)。
昔新河岸川の河岸場に捨てられていたものを譲り受けて大八車でここまで運び、祀ったものであるという言い伝えがある。(古老の話)
② 共同墓地には馬頭観音の施主である神山権右衛門の墓がある。寺子屋師匠の弟子たちによって建てられたもので、台座正面には「門人中」と彫られ、側面には門人の名が記されている、歴史的にも貴重な資料。
※神山権右衛門
明治41年没、台座に計283名の門人名が記されている。その範囲は、富岡地区の新田村落を中心に、遠くは練馬村、川越町も見られ、幕末から明治にかけて広範な教育を展開した師匠であった。寺子屋は巌広堂を称したといい、ほぼ同時代の北野の北広堂(沢田泉山)と双璧をなしたもの思われる。(市史上p866)
富岡の寺子屋:中富村3、下富村1、神米金村2、北岩岡村3
7)街道は、何故鉤の手(¬)に曲がっているのか?
① 明治14年測量の地図を見ると既に曲がっている。かなり昔から人為的に曲げられたものと推定。
② この街道の部分は、大字神米金(久米新田+神谷新田+堀兼新田)と北岩岡の境。どちらも同じ時期に新田開発されている。街道が堀兼新田に沿うように曲がっているということは、新田開発時に何らかの理由で道の付け替えが行われたと考えられている。
2.大和朝廷の権威を示す道
1)東山道武蔵路とは
① 飛鳥浄御原令689年制定。 「日本」という国号、「天皇」号もこの頃に制定されたと考えられている。
② 大宝律令(701年)、律令体制が本格的に始動。
行政単位として、全国を五幾(山城・大和・摂津・河内・和泉)、道(東海道・東山道・山陰道・山陽道・北陸道。西海道・南海道)に区分。
③ 全国、五幾・七道のもとに、国・郡・里と行政区分。
全国は約60の国に分けられ、国の政務を司るところが「国衙」。当初、武蔵国は東山道に属していた。
771年東海道に所属替。
④ 畿内の都から全国に向けて、国道を整備。
その道も「七道」同じ名前。上野国から武蔵国の国衙に向けて整備された道路が東山道武蔵路。
⑤ 基本的には道幅は12m、両側に側溝、直線道路。
約16kmごとに「駅家」を設置。
2)柳野遺跡
一昨年(2011年)、鎌倉街道堀兼道が通る富岡地区(下富)で奈良・平安時代の「東山道武蔵路」が発見された。
この遺跡が東山道武蔵路である理由
① 市域南部の南稜中学の校庭から発見された東山道武蔵路が直線的に北に延びる方向にある。
② 柳野遺跡調査では、西側の側溝と思われる溝状遺構と、その東側に人や馬が通るために固くした路面が発見されている。
③ 奈良・平安時代の土師器・須恵器片が出土している。
3.河岸道(三ヶ島街道)
① 道標を兼ねた馬頭観音。文政10丁亥(ひのとい)年2月吉日。
② 東古市場道、北川越道、南所沢江戸道、西八王子三ヶ島道

【担当:3班、資料提供:大河原功氏】