本所松坂町吉良邸から浅野内匠頭江戸上屋敷を歩く

日  時:11月9日(土)くもり
参加者数:17名
コース:吉良邸跡⇒回向院⇒両国橋⇒一之橋⇒芭蕉稲荷⇒萬年橋⇒清澄公園(昼食)⇒ちくま味噌店⇒永代橋⇒霊厳島(堀部安兵衛の碑)⇒高橋⇒鉄砲洲通り⇒鉄砲洲稲荷⇒湊住宅⇒聖路加国際病院⇒浅野内匠頭上屋敷跡(15:00)
☆吉良上野介義央邸跡
写真左は松坂稲荷大明神  中央は吉良上野介義央公  右はみしるし洗いの井戸
吉良上野介は、元禄14年(1701)8月19日に、本所一ツ目、回向院裏、旧松平登之助信望(ノボリノスケ ノブモチ)邸へ屋敷替えを命じられています。敷地面積は2,557坪 建坪合計1,234坪と伝えられています。
元禄15年(1703.1.30)12月15日(当時は14日)、赤穂浪士はこの邸に推参しました。現在の邸跡として残っている公園は、ごく一部で、当時の1/86の大きさです。関東大震災後に区画整理をされて道も変わってしまいました。
☆討ち入り
実際に討ち入った日付は元禄15年12月15日(1703.1.31)未明から早朝にかけてのことでしたが、当時の時間概念では日の出から一日が始まるというのが常識だったため、日の出前に行われた討ち入りは12月14日のこととされているようです。
元禄15年(1703)の暮れは例年にない寒さに見舞われました。14日に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったものの、空は晴れていたそうです。
集合時間は、八ツ刻(午前2時)、武器を携えた浪土たちは、七ツ刻(午前4時)頃に吉良邸に到着しました。
浪士たちは吉良邸の門前に来ると、二手に分かれました。表門組は大石内蔵助自らが采配を振う23名であり、裏門組は大石主税を名義上の主将とし、実際は吉田忠左衛門が指揮をとり、小野寺十内と間喜兵衛が補佐する態勢の24名でした。そして、その双方が、両門から討入ったのでした。
寝込みを襲われた吉良側は、死者16名、重軽傷者23名を出すほど必死の防戦をしましたが、ついには吉良上野介の首級を挙げられてしまいました。
☆引き揚げ
吉良上野介の首を槍の柄にくくりつけて吉良邸を出たあと、一行は回向院へ向かいました。しかし、かかわりあいになるのを恐れたらしく、回向院は入門時間でないことを理由に門を堅く閉ざしていたようです。
その様子を見て内蔵助は、回向院に入れなかったので「両国橋東詰の広場に赴く」という取り決めをやめて、急遽内匠頭の墓所である高輪の泉岳寺へ急ぐことにしました。
☆回向院
(左)明歴大火の供養塔   (中央)鼠小僧次郎吉の墓   (右)力塚    
振袖火事(フリソデカジ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))で亡くなった人々の供養にと、当時の将軍家綱は、隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、念仏を行じる御堂を建てたのが回向院の歴史の始まりです。
当寺は有縁・無縁に関わらず、また、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くものとして現在までも守られているそうです。
境内には、
〇明暦大火の供養塔
〇海難供養塔:帆掛け船型
〇関東大震災供養塔
〇聖観世音菩薩立像:万霊供養塚の上に立つ新しい風をイメージに平成14年に安置された。
〇力塚と回向院相撲:
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、文政年間(1818~1830)にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。
やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治42年(1909)の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願しているそうです。
〇馬頭観世音菩薩像
将軍家綱公の愛馬が死亡し上意によってその骸を当院に葬ることになりました。その供養をする為、回向院二世信誉上人は馬頭堂を建て、自らがノミをとって馬頭観世音菩薩像を刻し安置しました。
〇鼠小僧次郎吉の墓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれていました。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に受験生に人気があるそうです。
〇その他:
江戸後期の劇作者の山東京伝、義太夫節の創始者である初代竹本義太夫の墓などがあります。
☆両国橋
〇名前の由来:貞享 (ジョウキョウ)3年(1686)に国境が変更されるまでは武蔵国と下総国との国境にあったことから両国橋と云われています。
〇俵星玄蕃とそば屋の十助のはなし
杉野十平次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていました。やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなりました。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かいました。両国橋で赤穂浪士達と遭遇しましたが、大石には同道を断られました。しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。そして二人は今生の別れを交わし別れました。その後、玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでは、赤穂の邪魔をするものは一人たりともこの橋を通さないと、両国橋の上で槍を片手に仁王立ちになりました。
これは文化の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作といわれる。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助の「星」の字。この話は、三波春男の「俵星玄蕃」の歌で広く知られるようになりました。
本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋を渡って江戸市中に入るのが一般的ですが、そうすると武家屋敷街を通ることになります。15日は大名・旗本の登城日にあたっていました。不測の事態の起こるのを懸念した内蔵助は、両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して、竪川(タテカワ)の一之橋を渡ります。
☆一之橋
本所あたりは低地だったため、排水路を碁盤の目状に開削し、ほり出した土を陸地の補強、かさ上げに使用しました。下を流れるこの排水路は隅田川に対し縦に開削されていることから竪川と呼ばれています。上に掛るこの橋は、隅田川から入って一つ目の橋と云うことから「「一之橋」と命名されました。
橋の長さは13間、幅2間半ほどありました。当時、竪川の両岸には全国から水運でもたれされる様々な物品を扱う豪商や土蔵が建ち並び大いに賑わっていました。
一之橋を渡った右手は江戸幕府の海軍とも云える御船蔵があったところで大小艦船の格納庫になっており、14棟の船蔵が並んでいたと云います。巨大な軍船「安宅丸(アタケマル)」は船蔵に格納出来ず、外に係留されていたそうです。「安宅丸」の取り壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケと呼ばれていました。
☆新大橋
右手に見える黄色い支柱が新大橋。
新大橋が隅田川に架かる3番目の橋として架橋されたのは元禄6年(1693)のこと。単に「大橋」と呼ばれていた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられました。(因みに隅田川に最初に架けられた橋は千住大橋です)
歌川広重が描いた江戸名所百景の中の「大橋あたけの夕立」は、この新大橋を描いたもので、後にゴッホが模写したことでも知られる有名な絵です。
一行は、新大橋の付近で怪我人の近松勘六行重を駕籠に乗せ、隅田川に沿って更に南下します。
☆芭蕉記念館
松尾芭蕉が最初に本所深川のあたりに草庵を結んだのが延宝8年(1680)のことだと云います。その後火災に遭ったり、奥の細道の旅に出たりして何度か建て直されていますが、最後に深川を離れたのが元禄7年(1694)5月11日と云いますから、赤穂浪士一行がここを通ったのはその8年後ということになります。(ここに、芭蕉遺愛の石蛙が保管されています)
☆萬年橋
小名木川に架かる橋が萬年橋で、松尾芭蕉が住んでいた古庵というのはこの北詰にあったらしい。おそらくこの小名木川から船に乗った芭蕉は隅田川(当時は荒川)を遡り「奥の細道」へ旅立ったのでしょう。
一行は、小名木川の萬年橋から上の橋、中の橋、下の橋へと町人の街を行くコースをとりました。
☆赤穂浪士休息の碑
永代橋の手前に「ちくま味噌店」という店があります。ここは、浪士一行が泉岳寺へ向かう途中、乳熊屋(ちくまや)で休息し甘酒の接待を受けたと云われている店です。
この由来を記した赤穂浪士休息の碑が会社入口に建立されています。
それによると、乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友でした。この誼みで目出度く本懐を遂げ、泉岳寺へ向かう途中、浪士一行が永代橋に差し掛かるや、一同を店に招き入れ、丁度棟上の日でもあったので甘酒粥を振る舞って労をねぎらったと伝えられています。
大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残して行きました。これが後に大評判となり江戸の名所の一つになったそうです。
☆永代橋
永代橋は隅田川の最下流に架かる橋で、元禄11年(1698)五代将軍綱吉の50歳を祝って架橋されたものです。永代橋からは、「西に富士、北に筑波、東に安房上総、南に箱根」と云われるほど眺めが良かったそうです。
当時の永代橋は現在の橋より150メートル上流に架かっていたので、今は渡ってから豊海橋(トヨミハシ)を渡り箱崎町をIBM社ビルの方へ少し戻らないと四十七士の歩んだ道は通れないことになります。(写真上左の手前ビルがIBMビル、奥のビルは読売新聞社ビル)
一行はいよいよ江戸市中に入り緊張感はさらに増すことになります。霊巌島には越前福井藩の「松平越前守」の二万七千坪におよぶ中屋敷があり、その脇を迂回して高橋まで進みました。
☆霊巌島(霊岸島とも云う)
今から約400年前、江戸の城下町が開拓されている頃は、一面の沼地葦原でした。寛永元年(1624)に雄誉霊巌上人(オウヨレイガンショウニン)が霊巌寺を創建して土地開発の第一歩を踏み出しました。
同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪に及ぶ浜屋敷を拝領しました。屋敷の北、西、南三面に船入堀が掘られて、後に越前堀の地名の起こる原因となりました。
明暦3年(1657)の江戸の大火で霊巌寺は全焼して深川白河町に移転し、跡地は公儀用地となって市内の町々が替え地として集団的に移ってきました。現在は新川一丁目、二丁目。
越前堀公園の片隅に「霊巌島の由来」の碑があります。
☆堀部安兵衛武庸の碑
霊岸島に架かる亀島橋の近くに赤穂義士・堀部安兵衛武庸(タケツネ)(1671年~1703年)の碑があります。当時の水谷町(現在の八丁堀一丁目)に居住し、赤鞘(アカザヤ)安兵衛と称し、剣道の達人として知られていました。元禄7年、有名な高田馬場の仇討ちで、彼の武勇は江戸中に伝わりました。昭和44年、八丁堀一丁目町会によって碑が建立されました。(案内ミスで今回は訪れることが出来ませんでした。写真は下見の時のものです)
高橋を渡ると鉄砲洲に入ります。
☆鉄砲洲
江戸時代,幕府の鉄砲方が大砲の演習をした地と云われています。また、福沢諭吉が,慶応義塾の前身である蘭学塾を開いたのもこの地です。
現在の中央区湊町・明石町付近です。
      <鉄砲洲稲荷神社>                        鉄砲洲富士浅間神社  
平安時代の初期、凶作に悩むこの地の住民が産土神(ウブスナノカミ)を生成太神(イナリノオオカミ)として祀ったことに始まります。
平安時代創建の古社です。
○鉄砲洲富士
境内には区内唯一の富士塚があります。富士山の熔岩を用いたもので、頂上には末社鉄砲洲富士浅間神社が鎮座しています。高さ5.4㍍。【写真上右】
船乗りの神様である鉄砲洲稲荷を過ぎ、湊町周辺は、東京大空襲でも焼けなかったので、今でも古い家が所々に残っています。
一行は現在の明石小学校の真ん中辺にあった道を歩き、築地川の軽子橋(カルコバシ)を渡って、対岸から自分たちの屋敷を見ることになります。(築地川も軽子橋も今はもう無い)
私たちは、聖路加国際病院を目指して歩きました。(写真下は聖路加国際病院)
☆浅野内匠頭長矩江戸上屋敷跡
浅野家上屋敷は「松の廊下事件」のわずか3日後、元禄14年(1701)3月17日、出羽新庄城主戸沢上総介正誠(マサノブ)によって収公されています。 
築地の明石町、聖路加看護大学校舎横、暁橋(今はありません)方向の植込に、「浅野内匠頭邸跡」の大きな石碑が建っています。
ここは、江戸詰の藩士にしてみれば、つい数年前まで自分たちが勤務し生活もしていた場所であり、主君内匠頭の生誕地でもあります。
今の聖路加病院から中央区教育センターにかけての、八千九百七十余坪ほどが敷地だったといわれています。
浅野内匠頭は芸州広島浅野家の傍流の一つで、石高も五万三千石、九千坪近い明石町の邸の外、赤坂に千三百九十坪の下屋敷といわれる別邸がありました。ここは本邸でもあり、家臣のいる中屋敷を兼ねていたようです。
浅野家敷地八千九百七十四坪余、建家三千三百三十五坪、畳千四百四畳、障子大小七百九十五本、襖大小二百三十二本などと細かく書上げ、帳簿を引き継ぎ、浅野家の家臣は全員見事に立退いたため江戸市民の賞讃を博したそうです。
【担当:1班】