狭山不動尊から金乗院・中氷川神社・勝光寺・来迎寺を経て桜渕地蔵尊を歩く

当初、2月15日(土)の予定であったが、記録的な大雪のため一週間延ばし今日になった。所々雪は残っているが注意して歩けば危険なことはない。
参加者は12名(当初は21名)ほぼ全員トレッキングシューズを着用していた。これなら安心である。担当は1班。
9時30分に西武球場駅前に集合し狭山不動尊に向った。境内には未だ雪が20~30センチ残っている所もあった。
1.狭山山不動寺(狭山不動尊)
1975年開創。
空襲で荒廃した増上寺から焼け残つた物を文化財保護の為に移した徳川家霊廟に縁の物を中心に、各地の自緒ある堂塔を集めて伽藍が構成されている。
①勅額門
徳川秀忠の墓所の門。台徳院の額は後水尾天皇の書
②御成門
③総門
④本堂
以前の本堂は東本願寺より移築された七間堂、平成13年に焼失した。
⑤弁天堂
井伊直孝の追善菩提の為に滋賀の清涼寺に創建された物を移築。
祀られている弁財天は寛永寺の現龍院より移された。
⑥鐘楼
奈良の興福寺にあつたもの。 .
⑦羅漢堂山門
天下の糸平と言われた生糸商人虎ノ門の田中平八郎邸の門|。
⑧羅漢堂
元勲井上馨が明治28年に東大寺の二月堂を模して造ら,せた井上家の屋敷内にあった物。
増上寺の秀忠霊廟に諸大名が寄進した青鋼製の灯篭が移設。
⑨大黒堂
奈良の極楽寺より移築、祀られているのは寛永寺見明院の大黒天。
⑩第一多宝塔 
大阪の畠山神社より移築。
⑪第二多宝塔
兵庫の埼鹿寺より移築。

2.金乗院(山口観音)
①本堂と絵馬
正式の名称は「吾庵山金乗院放光寺」という。
本尊は「千手観音菩薩」。脇侍は不動明王・毘沙門天でいずれも行基大工の作と云われている。本尊は秘仏で33年に一度ご開帳されるそうだ。
本堂は宝暦年間(1751~64)に建立された。屋根は昭和9年~11年に銅葺に葺き替えられた。
本堂の絵馬、鳴き龍、扁額などをご住職の案内で拝観出来た。
☆六歌仙図大絵馬☆煙草屋図大絵馬
☆富士巻狩図大絵馬
②霊馬堂
元弘3年(1333)新田義貞は兵を集め当山本尊に戦勝祈願をして、お礼として自らの馬を寄付された。合格祈願、必勝祈願。歯ぎしりをする方はお参りすると治ると云われている。


3.吾庵
吾庵山金乗院放光寺の山号のもとになった場所が近くにあると云うので訪ねた。

4.六斎堂
狭山三十三観音3番札所。
創立は不明だが1805年の三十三観音巡礼記に当時は六観音が祀られていたとある。六斎とは毎月8、14、15、23、29、30日には〔斎戒謹慎〕し善心を起こすべき日とする民衆教化の宗教行事。
昭和17年に金乗院に所属。
【写真上右は古銭で「観世音」と書かれた扁額】

5.正智庵
臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は十一面観音。
残雪の中、ひっそりとした佇まいであった。

6.中氷川神社
氷川信仰とはスサノウに対する神道の信仰のひとつ。氷川は出雲の簸川に由来し、簸川の上流に出雲大社がある。
異説として本来の神はスサノウではなく見沼の水神とも謂われる自然神であつて、その信仰にヤマト族や出雲族の産土神であるスサノウ信仰が融合してできたとも云われている。
中氷川神社の中の意味は、大宮氷川神社と奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間にあることから中氷川神社と呼ばれている。

7.勝光寺
☆山門は三間一戸の楼門で入母屋造の銅板葺き屋根。元禄7年~9年(1694~1696)に建築されたもの。市指定文化財となっている。
☆本堂は、「京都龍安寺の塔頭の方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもつ。
しかし、建物調査によると、柱間は京間の寸法基準とは異なり、江戸時代の関東間の寸法基準をとっている。また、製作時期が異なると思われるヒノキ柱とケヤキ柱が混在し、ヒノキ柱の多くに新しい材で継ぎ足した根継ぎが見られる。これらから推測すると、この建物は、京都で解体され運びこまれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられる。
関東地方では、稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重である。
8.来迎寺
当寺は大光山無量寿院といい。詳しい歴史は分からないが、鎌倉時代初期に創設されたと考えられる。本尊は阿弥陀三尊であり、「車返しの弥陀」の伝説がある。
むかし、奥州平泉の藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返えしてこの地まで来たが、再び車が停まったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられている。また、この寺にある弥陀一尊種子板石塔婆(板碑)は、鎌倉時代中期に武蔵七党の丹治泰家が、亡母比丘尼妙証の追善供養のために造立したもの。梵字で表した主尊の阿弥陀如来が蓮台にのり、その下には浄土教の根本である無量寿経及び観無量寿経の偈げ、また「建長八年二月二十三日」の紀年銘、「丹治泰家敬白」と造立者名が刻まれている。碑の高さ155センチ、幅50センチ。厚さ8センチ。市指定文化財。(所沢市資料より抜粋)
残念なことに、現在は境内に建設会社の建物が建ち、立入禁止になっている。
9.桜渕延命地蔵尊
江戸時代の末期の天保14年(1843)造立された。
柳瀬川の渕で亡くなった赤子と子守りをしていた母親の妹の菩提を弔うために造立された地蔵と地蔵堂。ここには、悲しい民話が残っている。

「来迎寺」と「桜渕地蔵尊」に関する民話についてはここをクリックしてください。

◇歩き終わって
今日は、Kさんが丹精をこめて造った今年の新酒を試飲することになっている。
前回、清元に寄った折、女将に話しておいた。女将は快く引き受けてくれ、店のものに伝えておくと云ってくれた。(女将は休み)
田植えから稲刈り、脱穀、仕込みまで全てを1年かかりで行い誕生したのだ。ラベルも、市販のものは「風土記」だが、手造りの方は「風土季」とシャレている。このラベルの文字を書いているのは、一緒に飲んでいるTさんの知人だと云うから驚きだ。
肝心の酒の味だが、春を思わせるような爽やかなフルーティの香りで甘みを含んだ優しい味である。Kさんは女性向きの酒と云っていたが、私には合いそうな酒であった。今日は新顔の人もいて、合計6人での酒会となった。
女将もいないので、7時頃には帰った。