根古屋城跡を訪ねる

狭山湖畔にある根古屋城跡は、東京都水道局の管理下にあることから通常は中に入れない。
今回は東京都水道局のご理解とご協力の下で入れて頂くことが出来た。一般の人が入るのは(私の記憶が正しければ)昭和53年以来とのことだ。
場所は、下図で表すとおり狭山湖北岸に位置する。
私たちは小手指駅から早稲田/宮前方面行きバスに乗り狭山湖入口で下車し目的地まで歩いた。
6号扉入口に着くと既に東京都水道局の方2名と、所沢市文化財保護課からも数名の方が到着していた。
◆歩行ルートは以下の通り。

☆根古屋城跡について
① 遺構概要
所沢市大字勝楽寺字根古屋に所在し、別名を「リュウガイの城」ともいう。根古屋とは寝小屋の意で、各地にこの地名が残されており、山城の麓にある集落にこの名が付けられている。城主やその家臣らが平常ここに居住し、有事の際には山城に籠るようになっていた。リュウガイとは要害の訛言で、よく「龍ヶ谷」などと表記されている。
  【写真上左は勝楽寺村の地図】 【写真上右は狭山湖(中央付近の盛上った所が根古屋城跡)】
城跡は東西に連なる狭山丘陵より舌状に突出した部分の南斜面に存在し、現在は山口貯水池(狭山湖)北岸に立地している。
貯水池が造成されるまでは、南側に柳瀬川が流れており、沖積地と城跡南部との比高が20~30メートルで急崖をなしていた。西側は起伏が激しくて防御しやすく、東側は緩やかな傾斜をしており、北側はやや起伏に富んで、天然の要害地であった。
【写真上は北側斜面(左はぶどう棚、右はトトロの森4号地)】
② 測量調査
昭和52年度に根古屋騰跡の測量調査を実施しだので、ほぼその実態を明らかにすることができた。この調査の結果、城跡の規模は、東西220㍍、南北220㍍の卵形で、総面積約4万8,400平方㍍であることがわかった。
この城は山城で、本郭・二の郭・北馬出郭・東郭・南馬出郭等から成る多郭形式の城郭であり、しかも保存状態が良好である。
【写真上左は根古屋城跡鳥瞰図(西より)、中央は武蔵野話挿絵より、右は根古屋城跡鳥瞰図(東より)】
【4号扉から本郭に向う道】
③ 本 郭 
四方に土塁と空堀をめぐらし、標高は134~135㍍で他の郭よりは高い。土塁の高さは1.5㍍で、北西部と南西部に櫓台跡と思われる遺構がある。周囲をめぐる空堀と土塁上との比高は、西側が約6.5㍍、北側が約8㍍、東側が約7.5㍍とかなりある。本郭はこの城の中核であり、規模は東西約20㍍、南北約30㍍の隅丸長方形で、面積約600平方㍍となっている。
④ 二の郭
本郭の南側に位置し、土塁が西・南・東の三方をめぐっており、東側土塁は本郭の東側土塁と連続している。土塁の高さは0.5㍍~1㍍で小型である。南西隅は一段と高く、櫓台跡と思われる。南側には虎口と土橋が設置されている。二の郭の規模は本郭よりも広く、東西22㍍、南北33㍍の長方形を呈しており、面積は約720平方メートルである。
⑤ 空掘と外方土塁
本郭と二の郭を囲むように空堀がめぐらされている。西側空堀は全長約100㍍で、深さが北側で約1.5㍍、中央部で約2.5㍍、南側で約2㍍である。東側空堀は全長約105㍍である。
空堀の外側には本郭と二の郭を囲むように土塁がめぐらされている。西側土塁は全長100㍍で、高さが1~2㍍で、北端部に櫓台状遺構が見られる。南側土塁は全長約46㍍で、高さが約2㍍で、中央部よりやや東方で土橋とつながっている。東側土塁は全長100㍍で、高さが3~4㍍である。北側土塁は全長40㍍で、高さが2~3㍍である。虎口は北西部・南西部・南東部に設けられている。
【写真上右は空堀から土橋跡を登る一行。上右は土橋南側の土塁上からの眺望(狭山湖)】
⑥ 北馬出郭
城郭中核部の北西部に位置する馬出で、北西部と南側に土塁がある。馬出部の北西、東側は一段低く崖状を呈している。北側には浅い空堀が掘られている。東西10㍍、南北15㍍で、面積は約150㍍である。
標高は本郭・二の郭に次いで高い。
⑦ 東 郭
本郭の東側に位置し、周囲に土塁と空堀をめぐらしている。西側の土塁及び空堀は、中核部の外方土塁及び空堀と兼用されている。西側土塁は、長さ約23㍍で高さが約2㍍である。
北側から東側にかけて長さ43㍍の土塁がめぐっている。虎口は南東部にあり、南側には土橋が付随している。
規模は東西約32㍍、南北約20㍍の卵形で、面積640平方㍍である。
写真上左は東郭から腰郭に続く、上右は東郭中央付近】
⑧ 南馬出郭
東郭の南側に位置し、北側・東側にカギ状の土塁があり、その外側に空堀が掘られている。土塁は長さが東西11㍍、南北が27㍍で、高さが1㍍である。郭面は北側で東西の幅約9.5㍍、南側で約7㍍で、台形を呈している。

⑨ 城 主
根古屋城主については諸説があるが、この地域が山口氏の所領であったので、山口氏の築城と見てよかろうと思う。
「山口氏系図」によると、山口小太郎高忠が明徳・応永のころ(1390~1428)築城したとしている。山口氏は山口城を居館としてきたが、戦乱の際に避難する山城の必要性を感じてここに築城したものであろう。築城当時は小規模の城郭であったものが、その後しだいに拡張されたものと考えられる。「山口氏系図」によると、高種のときに北条氏康と戦って落城し、それ以降は北条氏に従属したという。したがって、この戦いのとき、根古屋城は城郭として大いに整備、拡張されたものであろう。根古屋城は、本郭と二の郭が中核部となっているが、この部分が最初に築城されたことは間違いない。それを取り囲むように外方土塁が築造されたり、出郭が設けられているが、これは明らかに後世の拡張工事と思われる。後北条氏の給人山口平六は、『小田原衆所領役帳』によると山口内の大鐘・藤沢分・小野分40貫文を領有していた。また、北野天神社にある元亀3年(1572)銘北野天神社縁起軸木・標木によると、山口平四郎資信が願主となって北野天神社縁起を元亀3年に表装修理している。
このように後北条時代になっても山口氏は山口領を支配し続けたので、根古屋城はこの時代にまた大いに拡張されて、多郭式城郭として整備されたのである。
【所沢市史より抜粋】