柳瀬川流域を歩く

出席者:18名
コース:柳瀬川駅⇒ 1.長勝院ンハタザクラ⇒ 2.柏の城⇒3.城山貝塚⇒ 4.寶幢寺の馬頭観音文字塔⇒ 5.寶幢寺⇒ 6.いろは樋の模型⇒ 7.旧村山快哉堂⇒(昼食)⇒ 8.旧西川門⇒ 9.市場通り⇒ 10.朝日原薬局⇒ 11.敷島神社・田子山富士塚⇒ 12.引又河岸場跡⇒ 13.いろは樋大枡⇒ 志木駅行バス停

1.長勝院ハタザクラ
目通り樹周り(目の高さ位の所の周囲)3・05㍍、高さ11・20㍍、推定樹齢400年以上のハタザクラ。花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁(1〜2枚)を生ずるヤマザクラの一種で開花時の花付きは極めて賑やかである。
2.柏の城
平安の末期、田面郡司藤原長勝の居城。
柏の城は、江戸時代に書かれた「舘村日記」に記されている。最近の調査によると深さ4.7㍍の大掘跡が発見されている。本郭は志木第3小学校あたりといわれている。
3.城山貝塚
この貝塚で見られる貝は、ヤマトシジミが主体をなし、次にマガキ、ハマグリが続く。縄文式土器が出土し、諸磯式期の集落にも接しているため、縄文前期の遺跡と思われる。
4.寶幢寺の馬頭観音文字塔
市指定文化財。
市内で一番大きい馬頭観音で高さが2.04㍍ある。
5.寶幢寺
創建は1334年とも言われているが定説はない。江戸時代には、三代将軍家光が鷹狩りの際、休息したのが機縁となって御朱印地を賜った。
また、「お地蔵さんと河童」「ほっぺたの黒いお地蔵さん」の伝説が伝わっている。
☆写真下は境内に咲くしだれ桜と石楠花とアセビの花
6.いろは樋の模型
☆いろは樋のしくみ (「私たちの郷土 しき」第4学年社会副読本より)
多摩郡小川村(現在の小平市)から引又村まで流れてきた野火止用水の水は、新河岸川を越えて対岸の宗岡村へ通すためにいったん「小枡」にためられました。そこから地下に埋められた樋を流れ下って、大枡に送られ、大枡が一杯になると、その水の力で、大枡の上部の口につながれていたいろは樋を流れて宗岡村に送られました。なお、明治31年からは、新河岸川の下を通す鉄管になりました。今残っている大枡は、この時にレンガで作られました。
【写真下左が大枡。右が小枡。】
☆江戸名所図会に描かれた引き又大橋・いろは樋付近
7.旧村山快哉堂(昼食
明治10年に建てられた木造2階建て土蔵造りの店蔵で、いろいろな薬を造って、売っていた薬局でした。本町通りに面して立っていましたが、平成13年に今の場所に移された。市指定文化財。
(当日の写真なし)
敷地内には「新河岸川の歴史」の案内板。少し下流には柳瀬川と新河岸川の合流地点(写真下右)がある。
8.旧西川門
西川家の中庭に建てられていた棟門。扉や柱に武州一揆の刀傷が見られることや伝承から慶応2年(1866)頃の建築と推定されている。
9.朝日原薬局
主屋を含む全7棟が国登録有形文化財。
明治20年代に創業された薬局。明治45年建築の店舗兼住宅の主屋を始め明治から昭和初期の建物構成が良く残されている。
10.敷島神社・田子山富士塚
写真下左は田子山富士塚。下右は敷島神社。
☆田子山富士塚は明治5年6月築城。高さ8.5㍍、円周125.3㍍、斜度39度。石造物の数・種類・細工などが大変優れており、当時の引又河岸や富士信仰を知る上で貴重な文化財である
11.引又河岸場跡
明治7年以降は志木河岸。新河岸川の河岸場の中でも最も栄えた河岸場の一つだったが、河川改修により昭和5年その役割を終えた。

【説明文書:大河原功氏提供】