講師:門内政広氏
享徳の乱における大石氏・長尾氏・太田氏〔上杉氏+室町幕府 VS 足利成氏(古河公方)〕
・享徳3(1454)年、足利成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の子)〔山内上杉氏〕を自邸に誘殺、これにより「享徳の乱」が始まる。
・享徳4(1455)年に、上野国から上道(鎌倉街道)を南下してきた上杉軍と足利成氏軍が分倍河原(東京都府中市)にて衝突。この戦いは足利成氏軍が勝利したが、上杉軍の勢力は衰えることがなかつたため、足利成氏は下総国古河(茨城県古河市)に入り、ここを拠点にした。
→足利成氏の代より、鎌倉を離れて古河を拠点としたことから「古河公方」と称される。
→分倍河原の戦いで大石憲儀が戦死。大石源左衛門尉が家督を継ぐ。(大石氏復元系図参照)
・長禄元(1457)年、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)と家宰の太田道真は河越城(埼玉県川越市)、大田道灌(道真の子)は江戸城(東京都千代田区)に入る。
・武蔵国の守護は山内上杉氏(関東管領は武蔵国の守護を兼ねる)であるが、上杉軍として足利成氏の攻撃に備えることを名目に、扇谷上杉氏(相模国の守護)は武蔵国に進出し拠点を築いた。
→扇谷上杉氏は実力により武蔵国の分割を図るが、ここに山内上杉氏と扇谷上杉氏の家内争いの遠因が認められる。
・長禄2(1458)年、幕府は8代将軍足利義政の弟、政知(まさとも)を新たな鎌倉公方として派遣したが鎌倉には入らず、伊豆国北条(静岡県韮山町)にとどまつた。これを「堀越公方」という。
→武蔵国は「享徳の乱」を契機に、扇谷上杉氏や足利政知(堀越公方)の勢力が及ぶことになるが、この中で江戸城を中心に勢力を拡大していくのが扇谷上杉氏の家宰となる太田道灌である。
・山内上杉氏は関東管領上杉憲忠を失つたが、家宰の長尾景仲が中心となって、長禄3(1459)年頃には、足利成氏の攻撃に対抗するために武蔵国の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄市)に陣営を完成。
→上杉軍では、山内上杉氏の家宰として長尾景仲。景信親子が、また、扇谷上杉氏の家宰として太田道真・道灌親子が活躍。
→家宰職は、主家の代行者的立場を担つており、様々な権利関係が家宰を通じて決定された。そのため、家宰が多くの権益を有することになつた。
長尾景春の乱
・山内上杉氏の家宰長尾景信の死により、景信の子の景春が家宰職を継ぐと思われていたが、上杉顕定(山内上杉)は家宰に景信の弟の忠景を任命した。これに景春が反発、山内上杉内で内部対立が生じた。
→親戚関係にあった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が和解を働きかける。
→長尾忠景は山内上杉氏の家宰職に就く以前に、武蔵国守護代の職に就いており、結果として両方の職を兼ねる立場になった。そこで、太田道灌は景春に武蔵国守護代職を譲ることを条件に山内上杉氏と長尾景春の和解を進めようとしたが、実らなかった。
・文明8(1476)年に長尾景春は、鉢形城(埼玉県寄居町)を拠点として反乱の姿勢を示し、文明9(1477)年に上杉方の五十子陣を攻撃し、解体させた。
→長尾景春の反乱による一連の戦いの中で、大石源左衛門尉(憲儀の子)が戦死。これにより、弟の定重が家督を継ぐ(大石氏復元系図参照)。
→長尾景春には、足利成氏(古河公方)、下総千葉氏、武蔵二宮(東京都あきるの市)の大石憲仲、下総葛西の大石石見守(いわみのかみ)、武蔵豊島氏らが味方。
・大石定重は上杉顕定(山内上杉氏。関東管領)の重臣として働く。景春の反乱が展開される中で、大石定重は武蔵国の守護代の職につく。
→山内上杉家の内部において敵対関係が生じる。
→長尾景春と親戚関係にあった太田道灌だが、景春の乱の鎮圧に活躍。この一連の戦いを通して、江戸城周辺の地域は扇谷上杉氏の勢力によつて占められ、その中心となつたのが家宰の太田道灌である。
・武蔵豊島氏が石神井城と練馬城を拠点としていたことによつて、江戸と河越の連絡が遮断される。
→太田道灌は文明9(1477)年4月、練馬城・石神井城を攻め、豊島氏を降伏させる。
・太田道灌が上野方面で戦つている間に、豊島氏は平塚城(東京都北区)を拠点として再び江戸城と河越城の連絡を遮断する。
→道灌が平塚城に向かつて進撃すると、豊島氏は平塚城から荏原郡丸子(川崎市中原区)へと逃れ、ついに文明10(1478)年4月、小机城(横浜市港北区。長尾景春の拠点の一つ)で太田道灌に敗れ、滅びる。
・太田道灌は長尾景春に味方した山内上杉氏の家臣を降伏させ、山内上杉家への帰参の取り成しにあたった。
→上杉顕定。長尾忠景からは充分な対応を得られなかった。
・文明10(1478)年、.足利成氏との和睦が成立。
→上杉方が幕府との和解を仲介することを条件に和睦。
→いつたん和睦が成立したものの幕府との和睦交渉が進まないことから、足利成氏は文明12(1480)年2月に和睦を破棄し、再び長尾景春に味方をして挙兵。
文明12(1480)年6月、長尾景春のいる秩父日野城を関東管領上杉顕定(山内上杉)と太田道灌(扇谷上杉)が攻める。この戦いに大石氏も進軍。結果として、長尾景春は敗北し、ここに長尾景春の乱が終結。
→上杉顕定が進軍していることから、大石定重が秩父日野城の攻撃に参加したことが考えられる。
文明14(1482)年H月、将軍足利義政と幕府と足利成氏(古河公方)との間で和睦が成立。
→幕府は足利成氏を正式に鎌倉公方として認める。拠点は古河のまま。
→ここに享徳の乱が終結。
長享の乱における大石氏の動向〔山内上杉氏 VS 扇谷上杉氏〕
・扇谷上杉氏の家宰太田道灌は長尾景春の乱を契機として、江戸城を中心に武蔵国の中で勢力を拡げていつた。
→これによって武蔵国の守護である山内上杉氏と扇谷上杉氏(相模国の守護)の間で対立が深まる。
→山内上杉家では、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌に対する不満が高まる。
→さらに、身内である扇谷上杉家内においても太田道灌に対する不満が高まる。
・文明18(1486)年、扇谷上杉定正が太田道灌を謀殺。
→太田資康(道灌の息子)は山内上杉氏を頼り、上杉顕定が擁護する。
→ これによつて、山内上杉氏と扇谷上杉氏の関係がさらに悪化し、ついに長享元(1847)年、戦闘に入つていく(長享の乱の始まり)。
古河公方は、扇谷上杉氏の味方につく。
長享の乱の開始時点において、大石定重は武蔵国の守護代に在任している。
→山内上杉氏家の中で重要な位置を占めていたことがうかがえる。
扇谷上杉氏と古河公方の勢力に対抗する上での重要な場所に柏の城(埼玉県志木市)は位置しており、大石定重の拠点は柏の城にあつたと考えられる。
→文明18(1486)年から長享元(1487)年にかけて、聖護院門跡の道興准后は大石氏の館を訪ねており、道興准后が滞在した修験の道場(大塚十玉坊)の近くにあつたことが『廻国雑記』に記されている。
→滝の城(埼玉県所沢市)や高月城(東京都八王子市)は扇谷上杉氏の勢力と接する場所に位置している、ことから、重要な城の一つであつたことは間違いない。
永正元(1504)年、山内上杉氏は扇谷上杉方の長井氏の拠点である相田城(東京都八王子市)を攻撃。
→大石氏は長井氏を攻略、相田城に移り、ここを拠点としたことが考えられる。
→大石定重が扇谷上杉方との戦いにおいて勢力を拡げる中で、滝の城(埼玉県所沢市)や高月城(東京都八王子市)に在城したことが十分にうかがえる。
・永正2(1505)年、扇谷上杉氏の敗北により、長享の乱は終結。.
・永正6(1509)年、伊勢宗瑞(北条早雲)の反乱により欄田城が攻略され、大石氏は由井城(東京都八王子市)に移つた。
→大石道俊(定重の子)は由井城を拠点とする。
・関東管領上杉顕定は、古河公方足利政氏の弟を養子(顕実)とし関係強化を図る。
→永正7(1510)年、上杉顕定が死去し、山内上杉の家督は顕実が継ぐが、もう一人の養子である憲房との間で家督争いが始まる。
・永正9(1512)年、憲房は実力で家督を継承。大石道俊は憲房に従つたと考えられる。
北条氏への従属
。伊勢宗瑞(後の北条早雲)は、相模国を永正13(1516)年に制圧。武蔵国に矛先を向ける。
→ この時点では大石氏と伊勢氏は敵対関係にある。
・伊勢宗瑞の死後、北条氏綱(早雲の子)力`その意志を継ぎ、大永4(1524)年に武蔵国の制圧に向けて攻撃を展開する。
→大石氏は大永4(1524)年までには、山内上杉氏から離れ、北条氏の傘下に入つたと考えられる(河越合戦で山内上杉氏が北条氏に敗北したことを契機に大石氏が北条氏の傘下に入ったという説が有力であった)。
→大永5(1525)年、大石道俊が出家し、養子の憲重の存在が確認できる。
→ これまで北条氏と敵対関係にあった道俊が出家し、憲重が家督を継ぐことで北条氏の傘下における大石氏の地位の安定化が図られたのではないか。
→武蔵国を領国化していく中で、大石氏の力が必要であったことを裏付けるものとして捉えられる。
・大石憲重(綱周)は、北条氏康(氏綱の子)の次男、氏照を養子とする(大石氏復元系図参照)。
→氏照は当初、大石源三を名乗る。
→永禄12(1569)年、北条氏照と名乗るようになり、この時点で大石氏の北条家
内における影響力は弱くなり、完全に従属した形となったと考えられる。
享徳の乱における大石氏・長尾氏・太田氏〔上杉氏+室町幕府 VS 足利成氏(古河公方)〕
・享徳3(1454)年、足利成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の子)〔山内上杉氏〕を自邸に誘殺、これにより「享徳の乱」が始まる。
・享徳4(1455)年に、上野国から上道(鎌倉街道)を南下してきた上杉軍と足利成氏軍が分倍河原(東京都府中市)にて衝突。この戦いは足利成氏軍が勝利したが、上杉軍の勢力は衰えることがなかつたため、足利成氏は下総国古河(茨城県古河市)に入り、ここを拠点にした。
→足利成氏の代より、鎌倉を離れて古河を拠点としたことから「古河公方」と称される。
・長禄元(1457)年、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)と家宰の太田道真は河越城(埼玉県川越市)、大田道灌(道真の子)は江戸城(東京都千代田区)に入る。
・武蔵国の守護は山内上杉氏(関東管領は武蔵国の守護を兼ねる)であるが、上杉軍として足利成氏の攻撃に備えることを名目に、扇谷上杉氏(相模国の守護)は武蔵国に進出し拠点を築いた。
→扇谷上杉氏は実力により武蔵国の分割を図るが、ここに山内上杉氏と扇谷上杉氏の家内争いの遠因が認められる。
・長禄2(1458)年、幕府は8代将軍足利義政の弟、政知(まさとも)を新たな鎌倉公方として派遣したが鎌倉には入らず、伊豆国北条(静岡県韮山町)にとどまつた。これを「堀越公方」という。
→武蔵国は「享徳の乱」を契機に、扇谷上杉氏や足利政知(堀越公方)の勢力が及ぶことになるが、この中で江戸城を中心に勢力を拡大していくのが扇谷上杉氏の家宰となる太田道灌である。
・山内上杉氏は関東管領上杉憲忠を失つたが、家宰の長尾景仲が中心となって、長禄3(1459)年頃には、足利成氏の攻撃に対抗するために武蔵国の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄市)に陣営を完成。
→上杉軍では、山内上杉氏の家宰として長尾景仲。景信親子が、また、扇谷上杉氏の家宰として太田道真・道灌親子が活躍。
→家宰職は、主家の代行者的立場を担つており、様々な権利関係が家宰を通じて決定された。そのため、家宰が多くの権益を有することになつた。
長尾景春の乱
・山内上杉氏の家宰長尾景信の死により、景信の子の景春が家宰職を継ぐと思われていたが、上杉顕定(山内上杉)は家宰に景信の弟の忠景を任命した。これに景春が反発、山内上杉内で内部対立が生じた。
→親戚関係にあった扇谷上杉氏の家宰太田道灌が和解を働きかける。
→長尾忠景は山内上杉氏の家宰職に就く以前に、武蔵国守護代の職に就いており、結果として両方の職を兼ねる立場になった。そこで、太田道灌は景春に武蔵国守護代職を譲ることを条件に山内上杉氏と長尾景春の和解を進めようとしたが、実らなかった。
・文明8(1476)年に長尾景春は、鉢形城(埼玉県寄居町)を拠点として反乱の姿勢を示し、文明9(1477)年に上杉方の五十子陣を攻撃し、解体させた。
→長尾景春の反乱による一連の戦いの中で、大石源左衛門尉(憲儀の子)が戦死。これにより、弟の定重が家督を継ぐ(大石氏復元系図参照)。
→長尾景春には、足利成氏(古河公方)、下総千葉氏、武蔵二宮(東京都あきるの市)の大石憲仲、下総葛西の大石石見守(いわみのかみ)、武蔵豊島氏らが味方。
・大石定重は上杉顕定(山内上杉氏。関東管領)の重臣として働く。景春の反乱が展開される中で、大石定重は武蔵国の守護代の職につく。
→山内上杉家の内部において敵対関係が生じる。
→長尾景春と親戚関係にあった太田道灌だが、景春の乱の鎮圧に活躍。この一連の戦いを通して、江戸城周辺の地域は扇谷上杉氏の勢力によつて占められ、その中心となつたのが家宰の太田道灌である。
・武蔵豊島氏が石神井城と練馬城を拠点としていたことによつて、江戸と河越の連絡が遮断される。
→太田道灌は文明9(1477)年4月、練馬城・石神井城を攻め、豊島氏を降伏させる。
・太田道灌が上野方面で戦つている間に、豊島氏は平塚城(東京都北区)を拠点として再び江戸城と河越城の連絡を遮断する。
→道灌が平塚城に向かつて進撃すると、豊島氏は平塚城から荏原郡丸子(川崎市中原区)へと逃れ、ついに文明10(1478)年4月、小机城(横浜市港北区。長尾景春の拠点の一つ)で太田道灌に敗れ、滅びる。
・太田道灌は長尾景春に味方した山内上杉氏の家臣を降伏させ、山内上杉家への帰参の取り成しにあたった。
→上杉顕定。長尾忠景からは充分な対応を得られなかった。
・文明10(1478)年、.足利成氏との和睦が成立。
→上杉方が幕府との和解を仲介することを条件に和睦。
→いつたん和睦が成立したものの幕府との和睦交渉が進まないことから、足利成氏は文明12(1480)年2月に和睦を破棄し、再び長尾景春に味方をして挙兵。
文明12(1480)年6月、長尾景春のいる秩父日野城を関東管領上杉顕定(山内上杉)と太田道灌(扇谷上杉)が攻める。この戦いに大石氏も進軍。結果として、長尾景春は敗北し、ここに長尾景春の乱が終結。
→上杉顕定が進軍していることから、大石定重が秩父日野城の攻撃に参加したことが考えられる。
文明14(1482)年H月、将軍足利義政と幕府と足利成氏(古河公方)との間で和睦が成立。
→幕府は足利成氏を正式に鎌倉公方として認める。拠点は古河のまま。
→ここに享徳の乱が終結。
長享の乱における大石氏の動向〔山内上杉氏 VS 扇谷上杉氏〕
・扇谷上杉氏の家宰太田道灌は長尾景春の乱を契機として、江戸城を中心に武蔵国の中で勢力を拡げていつた。
→これによって武蔵国の守護である山内上杉氏と扇谷上杉氏(相模国の守護)の間で対立が深まる。
→山内上杉家では、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌に対する不満が高まる。
→さらに、身内である扇谷上杉家内においても太田道灌に対する不満が高まる。
・文明18(1486)年、扇谷上杉定正が太田道灌を謀殺。
→太田資康(道灌の息子)は山内上杉氏を頼り、上杉顕定が擁護する。
→ これによつて、山内上杉氏と扇谷上杉氏の関係がさらに悪化し、ついに長享元(1847)年、戦闘に入つていく(長享の乱の始まり)。
古河公方は、扇谷上杉氏の味方につく。
長享の乱の開始時点において、大石定重は武蔵国の守護代に在任している。
→山内上杉氏家の中で重要な位置を占めていたことがうかがえる。
扇谷上杉氏と古河公方の勢力に対抗する上での重要な場所に柏の城(埼玉県志木市)は位置しており、大石定重の拠点は柏の城にあつたと考えられる。
→文明18(1486)年から長享元(1487)年にかけて、聖護院門跡の道興准后は大石氏の館を訪ねており、道興准后が滞在した修験の道場(大塚十玉坊)の近くにあつたことが『廻国雑記』に記されている。
→滝の城(埼玉県所沢市)や高月城(東京都八王子市)は扇谷上杉氏の勢力と接する場所に位置している、ことから、重要な城の一つであつたことは間違いない。
永正元(1504)年、山内上杉氏は扇谷上杉方の長井氏の拠点である相田城(東京都八王子市)を攻撃。
→大石氏は長井氏を攻略、相田城に移り、ここを拠点としたことが考えられる。
→大石定重が扇谷上杉方との戦いにおいて勢力を拡げる中で、滝の城(埼玉県所沢市)や高月城(東京都八王子市)に在城したことが十分にうかがえる。
・永正2(1505)年、扇谷上杉氏の敗北により、長享の乱は終結。.
・永正6(1509)年、伊勢宗瑞(北条早雲)の反乱により欄田城が攻略され、大石氏は由井城(東京都八王子市)に移つた。
→大石道俊(定重の子)は由井城を拠点とする。
・関東管領上杉顕定は、古河公方足利政氏の弟を養子(顕実)とし関係強化を図る。
→永正7(1510)年、上杉顕定が死去し、山内上杉の家督は顕実が継ぐが、もう一人の養子である憲房との間で家督争いが始まる。
・永正9(1512)年、憲房は実力で家督を継承。大石道俊は憲房に従つたと考えられる。
北条氏への従属
。伊勢宗瑞(後の北条早雲)は、相模国を永正13(1516)年に制圧。武蔵国に矛先を向ける。
→ この時点では大石氏と伊勢氏は敵対関係にある。
・伊勢宗瑞の死後、北条氏綱(早雲の子)力`その意志を継ぎ、大永4(1524)年に武蔵国の制圧に向けて攻撃を展開する。
→大石氏は大永4(1524)年までには、山内上杉氏から離れ、北条氏の傘下に入つたと考えられる(河越合戦で山内上杉氏が北条氏に敗北したことを契機に大石氏が北条氏の傘下に入ったという説が有力であった)。
→大永5(1525)年、大石道俊が出家し、養子の憲重の存在が確認できる。
→ これまで北条氏と敵対関係にあった道俊が出家し、憲重が家督を継ぐことで北条氏の傘下における大石氏の地位の安定化が図られたのではないか。
→武蔵国を領国化していく中で、大石氏の力が必要であったことを裏付けるものとして捉えられる。
・大石憲重(綱周)は、北条氏康(氏綱の子)の次男、氏照を養子とする(大石氏復元系図参照)。
→氏照は当初、大石源三を名乗る。
→永禄12(1569)年、北条氏照と名乗るようになり、この時点で大石氏の北条家
内における影響力は弱くなり、完全に従属した形となったと考えられる。