横浜山手地区及び本牧三渓園を訪ねる

出席者:11名
行  程: 所沢駅8時45分集合⇒元町・中華街駅⇒山手地区散策(港の見える丘⇒イギリス館⇒外人墓地)⇒中華街(昼食)⇒本牧三渓園⇒横浜駅⇒所沢駅

〇港の見える丘公園
美空ひばりのヒット曲「港が見える丘」に由来するそうだ。ちなみに歌の題名は「港見える丘」だが公園は「港見える丘」である。
〇イギリス館
〇外人墓地
〇三渓園(内苑)
三渓園は生糸貿易で財をなした原富太郎が造り、明治29年(1906)に当時にはめずらしく一般公開された名園である。原富太郎は美術愛好家としても知られ茶人でもある。雅号を南原三渓と称した。
☆御門:横浜市指定有形文化財
京都の西芳寺に宝永5年(1708)頃造営されたもの。大正初期に三渓園に移築された。規模の大きい薬医門の遺構として貴重。
☆白雲邸:横浜市指定有形文化財
大正9年(1920)建築。家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年間、夫人と過ごした住まい。門には白雲邸と書かれていた。


☆臨春閣:重要文化財指定
紀州徳川家の別荘として和歌山県紀の川沿いに建てられた数寄屋風書院造りで、慶安2年(1649)
の建築。大正6年(1917)当地に移され、臨春閣と命名された。
☆旧天瑞寺寿搭覆堂:重要文化財指定
豊臣秀吉が母のために建てた寿搭を覆うための建物で天正19年(1591)建築された。
☆亭樹(ていしゃ):樹とは屋根のある台を意味する。
☆聴秋閣:重要文化財指定
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。元和9年(1623)建築。
☆春草蘆:重要文化財指定
織田信長の弟、織田有楽斎が建てたと云われる建物。窓が九つあるため九窓亭とも呼ばれていた。
☆鶴翔閣
鶴翔閣は原三渓(富太郎)が家族との住まいとして建てたもので、明治35年に竣工、その延床面積は950㎡(約290坪)である。
通常は文化的行事などが行われているため中々屋敷の中には入れない。今日は入館が出来ると云うので楽しみにしていたが鶴翔閣に着いた時には閉館になってしまっていた。
ボランティア・ガイドさんが当館の責任者と交渉した結果、私たちだけが特別に館内を見学することが出来た。おまけに館内の案内はチョット偉そうな年輩の男性でありユーモア交じりに丁寧に案内してくれた。

広間:
私たちを好きな場所に座らせた。そこは明治の政治家や芸術家が座った場所で、三渓蒐集の美術品を鑑賞し、議論し、芸術を深めた場所あることをガイドさんから聞かされた。
楽室:
南東からの光が十分に入るように造られ、家族皆が集まって談笑や食事、音楽鑑賞をした部屋。
雨戸:写真右側から来た雨戸はコーナーを曲がり左側に移動する。
廊下(左)と茶の間(右):茶の間は家族の寝室や茶の間として使用。
書斎:大隈重信や伊藤博文などの政界の大物が頻繁に訪れていたと云う場所。
ガイドさんはここで古地図などを用いて三渓園の説明を行った。その後、私たちは一人ひとり椅子に座り当時を偲んだ。
客間
来客の居室。宿泊用や画家の製作の場として使われていた。
岡倉天心の依頼により、まだ若くて無名だった横山大観、下村観山らがここで絵を描いていた。
◆屋敷内の倉庫と鶴翔閣外観
三渓が収集した美術品を保管するための倉庫。
扉は漆喰で出来ていて、私たちでも扉の開閉には思い切り力を出さないと難しい。

〇後記
三渓園では内苑は女性のボランティア・ガイドさんが、また鶴翔閣の内部は男性の方が親切丁寧に説明してくれた。
しかし、私たちのサークルの中の幾人かは、ガイドさんの話を茶化したり、駄洒落を云ってみたり、ガイドさんの説明をさえぎり自分の意見を云ったり、無関係は質問や話を持ち出す等、目に余る言動が見受けられた。
結果、駄洒落や雑談に時間を費やされ、当初予定していたコースを廻れないケースさえ生じる。今回も、危うく鶴翔閣の内部が見学できないところであった。
ボランティア・ガイドさんたちは、私たちが所沢から来た「歴史に興味を持っているサークル」のメンバーだと云うことから誠意を持って説明をしてくれている。便宜も図ってくれている。
聴く側も、少しは真摯な態度で対応することは出来ないだろうか。

最寄り駅を降りると東の空では皆既月食が始まっていた。(18:44)