古都鎌倉史跡めぐり~日蓮上人の足跡を歩く~

集合:所沢駅2F改札口内 8:10
出発:8:22発 元町中華街行き乗車、横浜駅9:56発横須賀線逗子行き乗車
鎌倉着:10:21
コース:鎌倉駅で鎌倉ガイド協会のガイドさんと待ち合わせ出発する。
JR鎌倉駅東口⇒ 日蓮辻説法跡⇒妙本寺⇒常栄寺⇒妙長寺⇒材木座公会堂
(昼食)⇒実相寺⇒長勝寺⇒ 日蓮乞水⇒安国論寺⇒(徒歩)⇒ 」R鎌倉駅

鎌倉時代中期の日本は諸国に飢餓、災害が頻発していた。建長5年(1253)、日蓮は生地安房の小湊、清澄山旭が森で日蓮宗立宗を宣言し、鎌倉に入つた。小町大路に立ち民衆に辻説法を説き、文応元年(1260)前執権北条時頼に「立正安国論」を奏進した。その厳しい内容により松葉ガ谷の草庵が襲われたが窮地を脱した。苦難はさらに続き伊豆俎板岩、下総小松原、龍の口の法難と続く。文永8年(1271)の龍の口法難により佐渡に配流されるが3年後に赦免され鎌倉に戻つたあと甲斐の国身延山に入った。本日は日蓮の鎌倉での足跡を訪ねる。NPO法人鎌倉ガイド協会 川出伊左男さん(以下、ガイド資料に基づく)
①日蓮辻説法跡
日蓮が法華経の功徳を説いた跡。石碑と腰掛石がある。
この場所は小町大路に面しており武士の屋敷町と商人の商家町の境で人通りが多かった。
日蓮はここで説法をした。正法である法華経に背けば「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」であると。
明治になり日蓮信者で学者の田中智学が通りの反対側にあつた「日蓮上人腰掛石」を今の場所に移し国柱会を組織した。国柱会がこの場所を今も管理している。
②妙本寺
【山号・寺号】長興山妙本寺 【宗派】日蓮宗 【開基】比企大学三郎能本【開山】日蓮上人 【創建】文永十一年(1274)【本尊】十界大曼茶羅御本尊
総門と総門から二天門、祖師堂に向う参道
この地は建仁三年(1203)9月、大きな悲劇【比企の乱】のあつた場所である。また北条政子が鎌倉
幕府第2代将軍・頼家出産のため比企禅尼の居宅に入つたと『吾妻鏡』にある場所である。
この乱で滅亡した比企能員は将軍の外戚として力をたくわえ、頼家と北条氏追討を企て、逆に滅ばされた。一族の中で、2人の幼児がこの難を逃れた。
ニ天門と毘沙門天・持国天
中央が祖師堂、左が祖師堂左側から望む庭園、右は祖師堂正面に施された龍の彫刻
頼家の娘(後の竹御所)と比企能員の末子・能本である。後に頼家の娘が4代将軍。頼経の室となったことから、能本は許されて鎌倉に戻つた。鎌倉で日蓮上人に帰依した能本は、ここに法華堂を建立して日蓮に寄進した。日蓮上人は能本の父・能員の法号長興、母の法号妙本を取つて寺の名とした。
祖師堂内の日蓮上人坐像は、日法上人により日蓮上人の生前の姿を彫られたもので、「寿像の日蓮」と崇められた:。またこの像は一本の木から三体が刻まれて、それぞれ身延・池上・妙本の三山に安置されている。
本堂と方丈門
③常栄寺
【山号寺号】慧雲山常栄寺 【宗派】日蓮宗 【開基】日祐法尼【開山】日詔上人 【創建】慶長十一年(1606)【本尊】三宝祖師
時は、文永八年(1271)9月12日鎌倉幕府の命により、日蓮上人は捕らわれの身となり、龍の口刑場で処刑されることになつた。だが、刑場で突如異変現象が起き、この奇跡により刑の執行は不能となって日蓮上人は救われた。その日、捕縛された上人へ握り飯の替わりにぼたもちを差し出.した老婆の暖かい心に上人は大層感動された。
この老婆は桟敷台に住んでいた人で、桟敷尼と云われた。夫は将軍宗尊親王の近臣で印東次郎左衛門尉祐信、といい、夫婦とも法華宗の信者であった。尼は「日蓮瀧の口法難」から3年経った文永十一年(1274)88歳で亡くなった。法名は《妙常日栄》といい、これが常栄寺となつた所以である。今もこの夫妻の墓は境内にある。この頃から世間の人々は「これは老婆のくれたぼたもちの御利益に違いない」として、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺及び龍口寺等の日蓮上人像にぼたもちを供える習.らわしとなつている。
④妙長寺
【山号寺号】海潮山妙長寺【宗派】日蓮宗  【創建】正安元年(1299) 【開山】日実上人 【本尊】一尊四士
弘長元年(1211)5月12日、日蓮が幕府と他宗非難したとして逮捕され伊豆伊東に配流された時、由比ガ浜の沼ケ浦から船が出された。
弘長3年(1263)に許されて鎌倉に戻つたがこの時も沼ケ浦であった。この由緒の地に日実上人が創建した寺。
日実上人は日蓮が伊豆の俎岩に置き去りされた際に助けた舟守弥二郎の子とも本人とも言われている。日蓮を助け弟子となり日蓮没後18年目(1299)に鎌倉に入りこの地に妙長寺の礎をきづいた。江戸時代に大津波に流されたので現在地に再興された。相輪塔は五重搭の略塔で昭和6年に日蓮650年遠忌に信徒が建立した。
⑤材木座公会堂(昼食)
⑥実相寺
【山号寺号】弘延山實相寺 【宗派】日蓮宗 【創建】弘安7年(1284) 【開山】日昭上人 【開基】越後の大守 風間信昭公 【本尊】一搭両尊四士
文永8年(1271) 日蓮が佐渡へ流罪となって行った後 6老僧の筆頭の日昭は海に近い場所に「浜土の法華堂」を開き一門の教化、統率にあたった。日昭は日蓮より1歳年上で日蓮門下生第1号である。母は源頼朝の御家人工藤祐経の妻で工藤祐経の屋敷跡に寺がたっ|た。江戸時代に再興され実相寺になつた。
⑦長勝寺
【山号寺号】石井山長勝寺 【宗派】日蓮宗 【開山】日蓮 【開基】石井長勝 【復興】日静 【創建】弘長3年(1263) 【本尊】曼陀羅
当寺も日蓮の松葉ヶ谷法難の跡といわれる。流されていた伊豆から鎌倉に戻つた日蓮のために、石井長勝が自分の屋敷内に庵を寄進して建てたのが起源とされる。松葉ヶ谷法難の時の帝釈天出現の霊場とされ、帝釈天が祀られている。
法華堂(法華三昧堂
法華堂(法華三味堂)は県の重要文化財。行事で有名なのは、2月11日の大國祷会成満祭(水行)である。千葉県にある法華経寺で百日間の荒行を終えた修行僧たちが、頭から寒の水を手桶で何杯となく浴びる荒行を行う。
《松葉ヶ谷の法難》
日蓮が法華経の布教を始めたのが松葉ヶ谷の草庵で、ここから毎日辻説法に出かけた。しかし、日蓮は人々の反感を招き、この草庵は文応元年(1260)7月16日、焼打ちに合う。このとき日蓮の袖を引っ張って安全な洞窟へ導いたのが白い猿で、この白い猿は帝釈天の使いであったといわれている。
⑧日蓮乞水
建長5年(1253)日蓮は名越切通を通って鎌倉入りした。この辺りで急に水が欲しく.なり杖で地面をたたいた。すると清水が湧き出てきたという。
⑨安国論寺
【山号寺号】妙法華経山安国寺 【宗派】日蓮宗 【創建】建長5年(1253) 【開山】日蓮 【本尊】南無久遠実成本師釈迦牟尼仏
山門と本堂
日蓮は建長5年に安房国で立教開宗をした後、政治の中心地鎌倉入りをした。途中の佐渡への流罪等の期間を除き、身延山に移るまで述べ15年ほど鎌倉で布教を行つた。初めに庵を結んだのが松葉ヶ谷で、当寺はその聖跡とも云われている。
本堂の向い側に日蓮の当初の修行場で、文応元年(1260)に前執権'北条時頼に呈した『立正安国論』を起章したと云われる「御法窟」があり、お住まいした御小庵がある。
立正安国論を起草したと云われるご法窟(左)と住いとしていたご小庵(右)
また本堂の裏山に「松葉ヶ谷の法難」の折に白猿に導かれて避難したという「南面窟」がある。当寺2世の日朗は、元応2年(1320)に亡くなつた時「出家得度の松葉ヶ谷で」との遺言があり当所で火葬され、「日朗上人茶毘所」が設けられている。
南面窟と日蓮を導いたと云われる白猿
「妙法桜」は日蓮の桜の杖が根付いたものと云われ、 “市原虎の尾″という非常に珍しいという山桜で、「海棠」・「山茶蓄」と共に鎌倉市の天然記念物になつている。
境内には他に平和の鐘と云われる鐘楼・熊王稲荷が祀られている熊王尊殿等がある。
安国論寺の裏山からの眺望。晴れていれば富士山が見えるそうだ。前方の海岸が由比ガ浜
安国論寺から鎌倉駅までは歩くことにした。

【文献:NPO法人鎌倉ガイド協会の配布資料】