●日 時:1月10日(土)
●集合場所・時間:所沢駅2F改札口内 10時00分
(10時09分発 急行池袋行きに乗車予定)
●コース:東京メトロ有楽町線有楽町駅(11:02着)
有楽町駅B6番出口~馬場先門~楠正成公像~桜田門~国会前庭~彦根藩・井伊家上屋敷跡~半蔵門~千鳥が淵~東京国立近代美術館工芸館~(乾門・北桔橋門)~北の丸公園(新気象観測地点)~靖国神社(又は東京大神宮)~飯田橋駅(15:00頃)
●交通費:所沢―有楽町間 540円、飯田橋―所沢間 510円、
合計 1,050円
●持ち物:弁当、飲料水、敷物、雨具、
寒さに敏感な人は携帯用カイロ等。
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●おもな見どころ:
☆楠正成公像
住友家所有別子銅山開発二百周年を記念明治三十三年(1900年)に設置された。
作者は東京美術学校(現、芸大)教授高村光雲、息子の高村光太郎、馬は後藤貞行。騎馬の正成公を皇居に正対させるため、表裏反対に設置し直した。
江戸城城門中、屈指の美しさを誇る最大の門。特に石垣に注目。家康入府前このあたりの地名桜田郷に由来。間口の狭い高麗門(下左)左右40m・奥行30m枡形の内側右手に巨大な渡櫓(下右)。四方を石垣に囲まれた他の枡形門と異なる。
高麗門を抜けた正面は左手から回り込んだ桜田濠が続いている。濠の先は江戸城西の丸の高い石垣。身を隠すものはなく高みからの狙い撃ちに最適な場所。(下中央)
大老井伊直弼邸は桜の井戸国会前庭付近にあった。当時、大名登城ルートは特定しており、井伊家は桜田門を利用していた。
襲撃は地下鉄出入口前付近で起きた。登城風景は物見遊山の対象であった。当日は降雪の中、多数の見物人がいた。桜田門内に逃げ込めれば襲撃は失敗したはずだが、襲撃犯は見物客に紛れ、また気候にも恵まれ襲撃は成功した。
襲撃は地下鉄出入口前付近で起きた。登城風景は物見遊山の対象であった。当日は降雪の中、多数の見物人がいた。桜田門内に逃げ込めれば襲撃は失敗したはずだが、襲撃犯は見物客に紛れ、また気候にも恵まれ襲撃は成功した。
☆国会前庭・洋式庭園
(東京湾平均海面(T.P)からの標高。2011年3月11日東日本大震災により24mm低下したため、現在はT.P+24.414mに改定)
☆尾崎記念公園
左の記念碑には以下のことが記されていた。
≪この地の由来≫
室町時代の末期、太田道灌がよんだ「わが庵は 松ばらつづき海ちかく ふじの高根を軒端にぞ見る」という歌の松原の一角に連なっていたこの地は、江戸時代のはじめ加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居所となり明治初頭に及んだ。開国の難衝に当った大老井伊直弼もここに住んでいた。明治以降、弾正台ついで参謀本部の所在地となった。この地にある日本水準原点は明治24年に設けられた。昭和27年この地は衆議院に移管され、昭和35年憲政の功労者尾崎行雄を追念してここに浄財で記念館が建設された。
☆柳の井戸
桜田濠の柵内説明掲示に『この堤の下に柳の井戸があります。近くのもと井伊候藩邸表門前にあたる所にある桜の井戸とともに江戸時代から名水として知られ当時の通行人に喜ばれていました。』と記してあった。
左の記念碑には以下のことが記されていた。
≪この地の由来≫
室町時代の末期、太田道灌がよんだ「わが庵は 松ばらつづき海ちかく ふじの高根を軒端にぞ見る」という歌の松原の一角に連なっていたこの地は、江戸時代のはじめ加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居所となり明治初頭に及んだ。開国の難衝に当った大老井伊直弼もここに住んでいた。明治以降、弾正台ついで参謀本部の所在地となった。この地にある日本水準原点は明治24年に設けられた。昭和27年この地は衆議院に移管され、昭和35年憲政の功労者尾崎行雄を追念してここに浄財で記念館が建設された。
☆柳の井戸
桜田濠の柵内説明掲示に『この堤の下に柳の井戸があります。近くのもと井伊候藩邸表門前にあたる所にある桜の井戸とともに江戸時代から名水として知られ当時の通行人に喜ばれていました。』と記してあった。
文化財記念物:貝塚・古墳・都城跡・城跡旧宅等の遺跡で我が国にとって歴史上または学術上価値の高いものを史跡という。 その中で特に重要なものを特別史跡という。
現在、都内では江戸城関連、浜離宮、小石川後楽園の3件が特別史跡。
☆半蔵門
内堀通りの坂を登り切った左手土橋の先枡形の高麗門。渡櫓は戦災で焼失したままである。皇居にいちばん近い入口で皇族方が天皇陛下ご訪問時に使用。常時警備厳重のため近付けない。
左・南側:大名屋敷江戸城南半分を回り日本橋川で区切られる地域まで
右・北側:旗本屋敷麹町九段飯田橋駿河台近辺まで
現在の(麹町)1~6番町=将軍直接警護大番組旗本1~6番組各々組毎居住の名が残る。
*四番町行人坂歴史民俗資料館(千代田区立):明治初期撮影の江戸城各門の写真がある。
*東京国立博物館所蔵重要文化財旧江戸城写真帖の複写:門巡リには事前要必見。
☆濠端以北~千鳥ヶ淵交差点
その後、麹町と北の丸竹橋を繋ぐ土橋で分断。内堀通りを挟んで対面はイギリス大使館。裏手は日本カメラ博物館。
千鳥ヶ淵側の鉢巻石垣の上は遊歩道であるが、そこには、皇居守護用の高射砲台座跡が残っている。北の丸公園の鉢巻石垣と千鳥ヶ淵を一望出来る。
乾門・北桔橋門を経由して東京国立近代美術館工芸館横から北の丸公園へ入り新設定気象観測地点へ。
☆乾門
明治以降に造り直されたと思われる。天皇陛下公務外出の際に使用される。
天守閣に一番近い位置にあり、本丸裏手の防備上重要な門。架橋跳上げ用の金具が残存する。
江戸城関連の門としては現存する最古の門。裏手の高台にある弥生慰霊堂(下左)には、警視庁、東京消防庁の殉職者・功労者を奉祀している。
なお、清水門は現存(下右)。一ツ橋御門は現在の丸紅本社付近にあったようだ。
平成26年12月2日に千代田区大手町から北の丸公園へ移転した。移転した観測要素は、降水量、気温、蒸気圧、露点温度、相対湿度、雪(降雪・積雪)、気圧。
九段中学校前から「大神宮通り」に向かって下る坂。
『江戸砂子』と云う資料には、日光山半分見える故と書かれている。富士山は麓から頂上までを十分割して一合、二合、、、、と数えるが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)にしか見えず、更に、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になると云うわけだ。
☆東京大神宮
東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された。最初日比谷の地に鎮座していたことから、「日比谷大神宮」と称されていた。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っている。現在広く行われている神前結婚式は、当社の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えている。
最近ではパワー・スポットとして若者の間で人気の場所だそうだ。
境内は参拝客で混雑していて入れない。
それも殆どが若い人たちだ。私達も列に並ぼうと思い列の後尾を探したが、行けども行けども列は終わらない。途中の交差点では若い神主が交通整理をしている。こんな光景も中々見ることは出来ない。それにしても凄い人たちだ。コンサート会場にでも向う若者たちの列のような光景だ。
境内は参拝客で混雑していて入れない。
それも殆どが若い人たちだ。私達も列に並ぼうと思い列の後尾を探したが、行けども行けども列は終わらない。途中の交差点では若い神主が交通整理をしている。こんな光景も中々見ることは出来ない。それにしても凄い人たちだ。コンサート会場にでも向う若者たちの列のような光景だ。