旧中山道「板橋宿」の面影をたどる&石神井川の花見

1.     日    時  : 平成27年3月30日() 集合時間:9時50分
2.     集合場所  : 所沢駅2階改札内
3.     交通 行き:  所沢発1004→池袋→埼京線・板橋
   帰り:  都営三田線・板橋本町→巣鴨→池袋→所沢
4.     行程 JR埼京線・板橋駅東口→近藤勇の墓→加賀公園(昼食&花見)→東光寺→観明寺→板橋宿平尾町脇本陣跡の碑→いたばし観光センター→遍照寺→板橋宿本陣跡→文殊院→仲宿脇本陣跡→板橋→縁切榎→都営地下鉄三田線・板橋本町駅JR巣鴨駅にて解散。
1.近藤勇/土方歳三の墓
近藤勇は慶応4年(明治元年、1868)4月4日に下総国流山(現、千葉県流山市)で捕らえられ、新政府軍が板橋宿に置いた東山道総督府板橋陣に護送された。取調から僅か4日後に平尾宿の豊田家に移され、4月25日に平尾一里塚の辺りにあつたクヌギ林で斬殺された。ここには、明治3年函館戦争で戦死した新選組副長・上方歳三と会わせ墓が建てられている。この墓は、明治8年(1875)に新選組隊士だった 永倉新八が新政府の許可を得て建立したもので、右側面には戦死者39人、左側面には病死者と局中法度(隊則)違反などで処断された71人の隊士の名前が刻まれている。このほか、永倉新八の墓碑や土地の有志が建てた石碑なども有る。刑死したとき近藤は35歳、土方も同じ35歳で戦死している。
近藤の墓は、ここのほか、三鷹市大沢の龍源寺、会津若松の天寧寺にあり、上方の墓は、日野市の石田寺にある。
2.加賀公園(加賀前田家下屋敷跡)
石神井川や公園付近の桜は今が満開である。
ここは加賀前田家の下屋敷あとであり、公園内にある築山は藩邸内に造園された大名庭園の一部と云われている。
加賀藩の江戸屋敷はいずれも中山道沿いにあり、上屋敷は赤門のある本郷、中屋敷は駒込に置かれていた。特に、上屋敷と下屋敷は、ともに諸大名中最大の広さを持ってた。
3.東光寺
浄土宗の寺で芝増上寺の末寺。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた「宇喜多秀家の墓」がある。(写真下右)秀家は豊臣秀吉の五大老の一人で、備前国岡山の領主。関ヶ原の戦いに敗れた後、薩摩の島津家に逃れていたが、間もなく自首して、慶長11年(1606)一族12人とともに八丈島にへ流された。秀家は明暦元年(1655)84歳で歿した。明治3年(1870)、宇喜多家は赦免され、子孫71人の帰還が許された。縁のある秀家の妻「お豪の方」(前田藩初代利家の娘)は旧加賀藩主前田家を頼り、ここにあつた前田侯爵邸に起居した。秀家の墓は、八丈島の大賀卿にも残つている。
明治5年、宇喜多氏は、前田家から旧藩邸の敷地のうち3万坪が与えられ、農業を営むようになったそうだ。
4.観明寺
「不動通り」と呼ばれる商店街の右側に「観明寺」の大きな石柱がある。「観明寺」は真言宗豊山派の寺で、山号は如意山。暦応元年(1338)の銘がある「板碑」が残つていることから、室町時代初期の創建とも伝えられる古刹。
境内左手には「豊川出世稲荷」がある。正面の欄間に施された龍の彫刻は、左甚五郎の作とも言われる。(写真下右)正面本堂の左側には、「不動明王」が祀られている。これは明治6年(1873)、当時の住職が不動堂を造り、成田山新勝寺から勧請した。この地の商店街の「不動通り」はこれに由来している。また観明寺は商業の繁栄を司る「恵比寿天」が祀られている。(板橋七福紳の一つ)
5.板橋宿平尾町脇本陣跡
不動通り右側の「銭湯」の手前を右へ入る横道がある。この路地は「平尾宿」の名主だつた「豊田家」への通路だつたという。6階建てのマンションの辺りに、かつての「豊田屋敷」があり、銭湯の辺りには屋敷の門があつたと伝えられる。「豊田家」は「平尾宿」の名主と「脇本陣」を兼ねた地元の旧家である。「豊田屋敷」は御三家の紀州徳川家が休息所にするほど格式が高く、建坪109坪(約360平方傷)という豪壮な構えだつた。 
6.遍照寺
旧中山道仲宿」と標示された信号のある交差点を渡る。この先が「旧板橋宿」で最も賑わいを見せた「仲宿」となる。 三つ目の路地を右に入つたところに「遍照寺」」がある。 遍照寺は成田山と号する真言宗智山派の寺。江戸時代は区内唯一の天台宗で大日山と号した。 江戸時代には板橋宿の「馬つなぎ場」で、50頭の馬が常時置かれていたという。今は、境内の寛政10年(1798)建立の馬頭観音像がわずかにその面影を伝えるのみ。 
7.板橋宿本陣跡の碑
旧中山道を更に進むと、右側に「板橋本陣跡」の石碑がある。
宿場の本陣は、参勤交代の大名や公家などが、休息や宿泊施設としたもの。
地元で最も裕福で有力な旧家が、名主を兼務して務めた。
天保年間の記録によると、板橋宿の本陣は、広さが97坪で、上段の間、玄関、門構えを持つ、豪壮な平屋建てあったという。板橋宿は飯田家が務め、当主は代々「飯田新左衛門」を名乗つた。
参勤交代で中山道を往来する大名の数は、加賀藩前田家をはじめ約30家にも及び、文久元年(1861)には14代将軍家茂に降嫁する「皇女和宮」もここに宿泊された。
本陣の建物はこの辺りにあったが、明治23年の失火で消失した。
8.文殊院
御成道を少し歩くと左側に「文殊院」の山門が見える。江戸時代にはすでに創建されていたと伝えられる。真言宗豊山派の古茉l。大聖山と号する。本尊… 「文殊書薩像」はヒノキ材の寄木造りで、室町末期のものと伝えられる。山門の左脇には地蔵堂が有り、「延命地蔵」が安置されている。 山門を入つて左側にある「閻魔堂」には「閻魔大三」が安置されています。 山門を入つて右側には「子の権現」が祀られている。明治時代に、地元の人力車の車夫組合が、飯能市の「天龍寺(子の権現)」から勧請したもの。腰から下の病に効験ありと云われる。本堂の脇から墓地に入ると、すぐ左手に「飯田家」の墓所がある。飯田家の墓所の少し奥、左に入つたところに、「遊女の墓」がある。
9.仲宿脇本陣跡
本陣跡の交差点の辺りは、かっての宿場の中心地。ここから右へ向かう道は「御成道」、左へ行く道は「椎名町道」と呼ばれていた古道。
この「椎名町道」を少し行き、右へ折れる路地の左側に建つマンションの辺りが、かっての「仲宿本陣跡」。
ここは本陣の飯田家の本家屋敷があったところ。
代々、宇兵衛家を世襲し、板橋宿中宿名主を務めた脇本陣飯田家の屋敷跡。
幕末には14代将軍家茂へ降嫁する皇女和官が宿泊し、また明治初年に大宮氷川神社に行幸する明治天皇が休憩された。
10.板橋
「御成橋」の手前で左折し、石神井川沿いに旧中山道へ戻る。「御成橋」から数えて二つ目の橋は「番場橋」で、そのすぐ先を左へ迂回する道は「区立石神井緑道」この緑道はかっての川筋に沿つて造成したもの。緑道の先、旧中山道に架かる橋が「板橋」。宿場時代にはこの橋のたもとに「高札場」があった。江戸時代の橋は、「江戸名所図絵」にも描かれているが、その後、何度も架け替えられており、昭和7年にはコンクリート製のものとなった。現在の橋は、昭和47年の石神井川改修工事のときに架けられたもので、欄干には木目を施して往時の風情を模している。川幅と比較して橋が手前(仲宿側)に長いのは、緑道のところがかっての川筋だつたため。 幕末の蘭学者・文人画家「渡辺睾山」が少年の頃、家が貧しかったため他家へ貰われて行く幼少の弟を「板橋宿」まで見送り、弟は橋の所であとを振り返り振り返り別れたという。
11.縁切榎
「板橋」を渡つて石神井り||を越えると、旧中山道は板橋宿の中でも最も北に位置する「上宿」に入る。現在は「本町商店街」と呼ばれている。 橋を渡ってすぐ左側に9階建てのマンションがある。旧中山道筋に「大木戸」が設置された場所はこの辺りだとされる。この大木戸が実質的な江戸の境で、「江戸払い」(江戸追放の刑)はこの大木戸から外に出されることを言つた。 本町商店街をしばらく進むと右側に「縁切榎」と呼ばれる榎の古本がある。この榎の下を婚礼の行列が通ると、必ず不幸になるという言い伝えがあり、嫁入りの際にはここを避けて通つたという。一説によると、音は「榎」と「槻(ツキ)」(欅の古名)が双生していたので、「エンツキ(縁尽き)」という俗信が生まれたともいう。 また、妻から離縁を申し立てることがままならなかつた江戸時代には、この榎の樹皮を削って茶や酒に混ぜ、亭主に飲ませると離縁が叶うという俗信もあつた。 14代将軍・家茂に降嫁した「和宮」の行列がここを通過する際には、この榎を根本から梢まで、菰(こも)ですつぽり覆ったという。
【担当:第2班】