世田谷歴史めぐり

日時: 5月23日(土)8:50所沢駅2F改札内集合(9:00元町中華街行に乗車)
出席者:10名
~ことし放送中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の吉田松陰を祀る神社、敵対した井伊直弼の豪徳寺など、世田谷線沿線歴史散策~         担当:3班(岩崎さんが案内)
コース:所沢⇒渋谷(田園都市線に乗換)⇒三軒茶屋⇒目青不動⇒西太子堂(東急世田谷線)⇒松陰神社前⇒松陰神社⇒勝国寺⇒世田谷城址公園⇒豪徳寺⇒世田谷八幡宮(昼食)⇒勝光院⇒世田谷代官屋敷⇒区立郷土資料館⇒上町駅(解散15:00)⇒新宿⇒所沢

○三軒茶屋付近
☆大山道道標
☆三軒茶屋の町並と世田谷線(旧玉電)三軒茶屋駅
三軒茶屋の地名は、江戸時代中期、大山街道沿いの三叉路に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋という3軒の茶屋が並んであったことに由来する。

【写真上左:現在の三軒茶屋付近の風景。写真上右:世田谷線三軒茶屋駅】
○目青不動尊
江戸五色不動の一つ。江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のこと。
江戸城鎮護のため江戸城の四方に配置したのが、目白、目赤、目黒、目青の四不動。後に、家光が目黄不動尊を加え五眼不動として纏め上げたそうだ。因みに、五色とは、「目」にあるのではなく、東西南北中央の五方角を色で示したもの。
○松陰神社
吉田松陰は、安政元年(1854)下田に行き、アメリカ船に乗り込もうとして失敗。国許の萩に送られ牢獄に繋がれた。
その後許されて、私塾、松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞らを育てた。安政5年(1858)老中間部詮勝が攘夷の志士たちを逮捕(安政の大獄)しだすと、間部の要撃を策して安政の大獄に連座、翌安政6年処刑された。享年29歳。
その4年後の文久3年(1863)、門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬された。
明治15年(1882)11月、門下生により墓畔に社を築き、松陰の御霊を祀り神社を創建した。
☆松下村塾
ここにある松下村塾は、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したもの。
大河ドラマ「花燃ゆ」は、現在テレビ放映中でもあり、その影響もあるのか観光客が絶え間なく訪れていた。
☆吉田松陰像と墓所
吉田松陰の石像は実物に一番良く似ているそうです。
○勝国寺
吉良政忠が、世田谷城の鬼門除けとして開いた寺。徳川時代は御朱印寺。吉田松陰と親しかった維新の志士・土屋蕭海の墓がある。
○世田谷城址公園
世田谷城は吉良治家が南北朝のころ関東管領・足利基氏から戦いの手柄により世田谷領を貰い築城したと云われている。以後、吉良氏八代、二百数十年の間居城としていたが、天正18年(1590)小田原の北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた時に落城した。
★ 世田谷城主の吉良氏と吉良上野紹介義央とは関係があるのか?
吉良氏は清和源氏の子孫である。足利義氏の子、長氏は吉良氏の祖となり、義継は奥州吉良氏の祖となった。治家は、奥州吉良の祖義継から数えて6代目当主。初代世田谷城主である。その後は、頼治、頼氏、頼高、政忠、成高、頼康、氏朝、頼久へと継く。
一方吉良の祖となった長氏は三河国吉良庄西条に定着し、西条吉良の祖となり、三河吉良と呼ばれるようになった。4代目満義の子満貞は西条吉良氏5代目を継ぎ、もう一人の子尊義は吉良庄東条に住み東条吉良氏の祖となった。
西条吉良11代目義尭の子義安は、東条吉良7代目の持広の養嗣子となり東条吉良8代目の当主となるが、西条吉良12代目当主・吉良義郷には嗣子がなかったため、後に義安が西条吉良も継ぎ西条吉良13代目当主となった。
義安の妻は松平清康の娘(俊継尼)。義安の死後、家康は義安の遺児を取り立てて、義定と名乗らせ所領を与えた(西条吉良14代)。そして、15代義彌のとき高家となり、義冬(16代)、義央(17代)と続いたが18代義周(上杉家より養子)のとき、元禄事件により領土は没収され高家吉良氏は断絶した。
と云う訳で、世田谷城主の吉良氏は奥州吉良であり、忠臣蔵で悪役になった吉良上野介義央は西条吉良(三河吉良)の末裔であった。
○豪徳寺
曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。
文明12年(1480)世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために庵を結んだのが始まりだと云われている。
寛永10年(1633)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創設し整備した。寺号の豪徳寺は直孝の戒名からとった。
墓門を入ると彦根藩主歴代の大きな墓碑が並ぶ。墓所は国史跡。井伊直弼の墓は、奥まった南西側にある。墓の後ろには直弼を守って死んだ「桜田殉難八士之碑」がある。
墓所の中に、女性の墓碑が多いのは藩主の奥方が江戸で暮らしていたためだろう。
★招き猫伝説
江戸時代の初期、彦根藩主の井伊直孝がこの寺の門前を通りかかったとき、一匹の猫が「おいで、おいで」と手招きをしていた。招かれるまま境内に入ると、今まで直孝がいたところに落雷があり、危うく災難を免れた。その後、直孝はこの寺をたびたび訪れ、感じるところがあって菩提寺にしたと云う。
○世田谷八幡宮
源義家が御三年の役(1083~1087)の戦勝を祝して、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりという古社。江戸時代には徳川家から朱印状11石受けた。再建を繰り返し、付近の神社を合併し、宇佐神社から世田谷八幡宮と改めた。
○勝光院
建武2年(1335)初代世田谷城主吉良治家により開基されたが、一時途絶え、7代の頼康によって中興開基された。勝光院は頼康の法号。竹林が美しい寺である。
墓所に、吉良氏の歴代の五輪搭が並んでいる(写真下)。
○世田谷代官屋敷
江戸時代の中期以来、彦根藩世田谷領20ヵ村の代官を世襲した大場家の住居。現在残っているかやぶき木造の母屋と表門は国指定重要文化財。
○区立郷土資料館
代官屋敷の敷地内にある。石器、土器、刀剣類などの考古資料、旧家所蔵の中世以降の古文書、家具調度類、農機具、工具、風俗資料などの民族資料がある。
○上町駅で解散後、西新宿で今話題の怪獣を見て帰きましました。