〜河越氏の盛衰と中世の歴史探訪〜河越館跡見学

 歴史散策クラブ7月例会  3班本多、岩崎、大河原
月 日:7月12日(日)
◆ 出席者:13名
集 合:西武線本川越駅改札口外9時30分
    西武線本川越駅(徒歩)→ 東上線川越市駅→ 霞ヶ関駅下車(9:50 
◆ コース:
霞ヶ関駅北口(10:00 )⇒ 上戸日枝神社⇒ 長福寺⇒河越館史跡公園 ·(資料館見学)⇒ 常楽寺(12:00) 
昼食:「河越館史跡公園」⇒(食後)⇒ 八坂神社の天王祭り見学

◆ 茶畑を抜けて鈴木茶園の長屋門を眺め、平安期から鎮座する日枝神社に参拝、国指定史跡「河越館史跡公園」で中世200 年に渡り活躍した「河越氏」一族の栄華の跡を偲び、時宗の常楽寺へ向かう。(川越市のシルバーセンター・ボランティア・ガイド付き)
★日枝神社
当社は元日吉山王権現と称し、遠く貞観年代(860年)の創立。陸奥岡の住人休慶と言う修業僧が、京都比叡山麓にある日吉山王を深く信仰し、神告により武蔵の此の地に社を建立したと云われている。
永暦元年(1160)後白河上皇が京都に新日吉山王社を祀ったのにともない、河越氏が河越庄を後白河上皇に寄進、以後後白河上皇の御領地となり、新日吉山王権現と称していた。
寛永年中(1143)北条時頼が社殿を再営し、更に河越平朝臣経重が、文応元年(1260)に銅鐘を寄進。銅鐘には「武蔵国河越庄、新日吉山王宮・・・・・」等の銘文が刻されている。現在は市内養寿院に保存されており重要文化財指定。明治元年(1868)神仏分離令により、日枝神社と改称する。
明治41年県令により、村内無格社(神明・八坂天王・愛宕・御嶽・浅間等)は皆境内に合祀された。)
なお、東京赤坂の山王日枝神社は当社の分霊社だそうだ。
今日は、天王祭りのため獅子頭が社に飾られていた。
★長福寺
永享元年(1429年)、澤文善光和尚によって開創され、同12年頃、雲崗俊徳禅師が開山。
太田道灌が雲崗俊徳禅師に帰依して出家した寺。
境内には「開山雲崗俊徳禅師弟子太田道灌公」の銅像がある。
★河越館跡
河越館は坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされる。
河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(卿御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。
しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。
室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、河越氏は、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。
戦国時代の初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城(現川越市立博物館周辺)を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。
『新編武蔵風土記稿』には「上戸に大道寺政繁の砦があった」と記されており、その砦は河越城築城後も出城として機能していたと推測され、豊臣秀吉の小田原征伐の際の天正18年(1590)に川越城落城とともに廃城となったと考えられる。なお、館跡の一部は現在は常楽寺になっている。
遺跡は、入間川西岸に接する平地にあり、その南東部を占める常楽寺境内をはさんで、東西約150メートル、南北約200メートルの方形の区画(曲輪)を思わせる高さ1メートルないし3メートルの土塁およびその外側の堀が一部遺存しており、全体では東西約240メートル、南北約300メートルの規模を有する。土塁は一条、空堀は二重になっており、館跡北東の幅約11メートル、深さ3メートルの外堀はかつて入間川と繋がっていたと思われる。
国指定史跡の河越館跡は、この河越館の保存を図るとともに、郷土学習の場、市民の憩いの場として整備し平成21年11月15日に開園した。
★常楽寺
平安時代末期から南北朝時代にかけて、武蔵国で最大勢力の豪族であった河越氏が拠点としていた河越館の跡地の一角にある。常楽寺は河越氏の持仏堂が基となって発展したものとされる。応安元年(1368)の武蔵平一揆で河越氏が滅んだあと、長享の乱の際には扇谷上杉家の河越城を攻略するため、山内上杉家の上杉顕定がここに上戸陣を置いた。
後北条氏が川越を支配すると重臣の大道寺政繁が領主となったが、豊臣秀吉の小田原征伐に屈し、秀吉の命で大道寺政繁はこの地で自害した。大道寺政繁供養搭がある(写真上左)。また河越重頼・京姫(卿御前)・源義経の供養塔もある(写真上右)。京姫は義経の正室で、義経と4歳の娘と共に平泉・衣川館で最期を遂げ、重頼もそのため源頼朝に誅殺された。 境内に一遍上人の像がある。石灯篭は、かつて東京芝の増上寺の徳川家の墓所にあったもの。
★八坂神社の天王祭り
もとは7月15日に行われていたが、「地域の祭りは地域住民一体となって」の精神に基づき又、子供たちと、そして一人でも多くの参加者をと言うことで現在は7月15日に近い日曜日に行われているとのこと。
漆塗りの朱色も鮮やかな獅子頭、九色九反の水引(約10m)を麻縄で繋ぎ、獅子頭は大人六人が其々二人は獅子頭を肩に乗せ、二人は獅子頭を支え、鼻綱を持つ二人に引かれる様に、又、獅子頭の後ろに伸びる九色の水引には大人、子供が入り混じり掛声も勇ましく時には走り、時には歩み、先導する大太鼓の音に引かれるように地区内を練り歩く。
昔は鯨井地区の戸数も150戸程でその当時は全戸を回り、獅子頭・水引一体が縁側から家の中に入りトボグチ(玄関)から出て行く、といった習わしだった。近年は戸数も増え、家の造りも変わったため各家庭に入ることは時間的にも、構造的にも出来なくなり地区内の道々を練り歩くといった形になっている。
獅子頭の巡行に伴い、獅子行列の行く道筋、或いは自宅の庭先等に獅子の到達を待ちわびる年配の方たちが数多く見受けられる。これは昔から「獅子頭に頭を噛んでもらうと其の年を無病息災で過ごすことが出来る」と言い伝えられているので、獅子のご利益に肖りたいと願う人々。最近では赤ん坊から年配の方まで幅広い年齢層になっている。
地区内半分程を周り厄病を呑み込んだ獅子頭は、途中小畦川に入り、呑み込んだ厄病を水に流し、洗い清めて更に厄払いの巡行を行う。 
こうして地区内を回り終えた獅子頭はもう一度小畦川に厄病を洗い流し、社殿に戻り祭りの終焉となる。
最後は御神体に、祭りの無事を感謝し、社殿前で手締めをするそうだ。
150年以上の歴史をもつ祭りである。