石神井城跡を歩く

日  時:9月12日(土)
出席者:14名
ガ イ ド:門内氏(所沢市民大学講師)
市民大学時代からお世話になっている門内氏のガイドで石神井城跡を歩くことになった。
石神井公園付近の地形、池淵遺跡、それに石神井城の城主であった豊島氏や豊島氏を滅ぼした太田道灌については8月例会の講座で説明を受けている。
◆石神井公園と石神井池
石神井公園は1933年に地元民の協力で造られた人造池である石神井池を中心とする公園で1959年に開園した。園内には石神井池と三宝寺池の二つの池を中心に豊かな自然が残っている。
石神井池を右手に見ながら野外ステージの脇の坂道を上るとそこが池淵遺跡である
◆池淵遺跡
池淵遺跡は南を石神井川、北を三宝寺池に挟まれた舌状台地のほぼ中央にあり石神井川流域を代表する遺跡の一つ。旧石器時代の礫群や縄文時代の竪穴住居跡が発見された。
また、弥生時代と中世の遺構や遺物も発見されており、ここが、長い時代にわたって人々の生活の場所とされてきたことが分かる。
庚申塔の前で門内氏の説明を受けている歴史散策クラブのメンバー。
◆史跡公園と古民家「旧内田家住宅」
☆縄文時代の竪穴住居跡
「今から約5000年前の住居跡が昭和47年(1972)の発掘調査によりこの場所から発見されました。発掘後埋め戻し保存し、円形の植え込みで標示しています。
円く地面を掘り下げ住居の床とし、そこに数本の丸太を立てて、円錐状の屋根を草で葺いた簡単な造りの住まいです。」と、下左の案内板に書かれていた。
☆旧内田家住宅
建築年代:明治20年初め。 建造様式:茅葺き寄棟造り(平入り)。 間取り:整形四間取りの主体部とその北西に張り出す角屋からなる。
旧内田家住宅は明治初めに練馬区中村に建てられた民家である。部材の一部には江戸時代の古材も使われている。平成22年(2010)池端史跡公園へ移築復元した。
◆三宝寺池
三宝寺池は井の頭池や善福寺池などとともに武蔵野台地を代表する湧水池の一つで「江戸名所図会」にも紹介されているように、江戸時代から郊外の名所として知られていた。【下の絵図】
1周約700㍍。沼沢植物が自生しいることから1935年三宝寺池沼沢植物群落として国の天然記念物に指定されている。
◆殿塚と姫塚
☆殿塚
文明9年(1477)石神井城が上杉氏の将軍太田道灌との戦いに敗れて落城したときに、城主豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説がある。この塚は縁者が泰経の徳をしのんで築いたといわれている。
☆姫塚
文明9年(1477)に石神井城が落城したとき、城主豊島太郎泰経の後を追い、次女の照姫も三宝寺池に入水したという伝説がある。この塚は、縁者が姫の供養のために築いたといわれている。
*史実によれば、文明9年(1477)4月28日太田道灌の総攻めをしかけられ石神井城は落城、泰経は夜陰にまぎれ脱出した。文明10年(1478)正月に泰経は平塚城(東京都北区)で再挙するが、25日、太田道灌に攻められて落城。泰経は足立郷に逃れる。その後は北に逃げて行方知れずとなり、豊島本宗家は歴史上から姿を消すことになる。

◆石神井城跡
三宝寺池の南に台地を上る階段がある。上り口の池のたもとに石神井城跡の碑がある。
石神井城は平安時代末から室町時代中期にかけて、この練馬から葛西方面に勢力を張っていた豊島氏の居城の一つである。築城年代は不明だが、一説によれば豊島泰景が正安年間(1299~1301)頃に築城したといわれているが、おそくとも鎌倉時代末には築城されていたと考えられる。
城域は、南を石神井川、北を三宝寺池に挟まれた自然の要害を利用し、南北約300㍍、東西約350で、広さが約10㌶ある。
豊島氏は、秩父平氏の一族の武常が平安時代末に武蔵国豊島郡に本拠をおいたことによる。
鎌倉時代には豊島郡一帯を領有する有力な鎌倉御家人だったが、1477年に豊島泰経が太田道灌との戦いに敗れたために、石神井城も落城し、以後、廃城となった。
◆氷川神社
豊島氏が応永年間(1394~1428)に武蔵一の宮である大宮氷川神社の分霊を城内に祀ったのが始まりとされる。豊島氏が没後は上石神井・下石神井・谷原・田中・関の5か村からなる石神井郷の総鎮守として人々から嵩敬され今日に至っている。
本殿は文政年間(1818~1830)の造営といわれ、拝殿は1901年に建てられたもの。
◆三宝寺
真言宗智山派亀頂山密乗院三宝寺。応永元年(1394)に権大僧都幸尊が下石神井村に開山したと伝えられている。現在地には1477年の石神井城落城の後に太田道灌により移された。参道にある重厚な構えの門が御成門で、三代将軍家光が鷹狩でお成りになったことから、そう呼ばれている。現在の御成門は1827年に再建された。
☆長屋門
もと、港区赤坂の勝海舟邸にあったものを移築したもの
◆道場寺
曹洞宗豊島山無量院道場寺。この寺は石神井城主豊島輝時が応安5年(1372)に大覚禅師を招いて開山し、豊島家の菩提寺にしたと伝えられている。墓地には、石神井城最後の城主であった泰経一族の墓と伝えられる3基の石搭がある。
現在の本堂は1937年に新築。その後さらに唐招提寺の金堂を模して改築されている。また山門、鐘楼、三重塔は1970年から75年にかけて新築されたもの。
【参考文献:門内氏作成資料、練馬区教育委員会資料等】