落合界隈を歩く

小雨降る中、落合界隈をあるいた。歴史散策クラブの10月行事で1班が担当である。
9時45分所沢駅集合。駅に着くと申込者10名のうち9名が参加していた。
9時47分所沢発急行新宿行きに乗車。途中上石神井で各駅停車に乗換え、下落合駅で下車。
最初に向かったのが落合橋である。
そもそも落合という地名は妙正寺川と神田川が落ち合う所(合流地点)に由来しているという。
”ホタルの名所として知られた、妙正寺川にかかる落合橋”と資料で紹介されていたが、実際には神田川にも同名の橋があった。さらに、現在の合流地点は「神田川流域河川整備計画」により高田馬場分水路を経て高戸橋付近で神田川に合流している。
【上写真:左は妙正寺川にかかる落合橋。右は神田川にかかる落合橋。】 
明治23年2月の中村了随著「東京名所図会」には
「落合土橋は上落合より下落合へ行く道に架す。此処より1町計り上の方に玉川の流れと井頭の池の下流と相會する所あり。故に落合と云う。此地も亦蛍に名あり。山城の宇治、近江の瀬田に勝れり。故に遊人暮るるを待ちてここに逍遥するもの頗る多し。其光景恰も玉の如く又星の乱れ飛ぶに似て最も奇観なり。夏月納涼に宜しとす」と、記している。
新目白通りに出ると目の前に氷川神社が見える。正門鳥居の前に小さな庚申搭がある。
この庚申塔は文化13年(1816)造立。
青面金剛像の下に邪鬼と三猿を配し、右側面に「ぞうしが屋」、左側面に「くずが屋」と刻んであるそうだが判読が難しい。
ぞうしが屋は雑司ヶ谷だろうか?、くずが屋とはどの辺を差しているのか見当もつかなかった。
佐伯祐三アトリエ記念館ではボランティア・ガイドをお願いしていた。
奔放な線描と大胆な色彩表現で知られる洋画家・佐伯祐三(1898~1928)のアトリエ跡。
祐三は大正10年から渡仏する13年までと、大正15年から翌年再渡仏するまでの間、米子夫人とともにこの地で暮らし、祐三の死後は夫人が昭和47年に亡くなるまで住んでいた。その期間、祐三は蓮作「下落合風景」を何枚も描いており、その一つは近くの落合第一小学校に寄贈されている。(下の絵)
残念なのは、ここは祐三のアトリエ記念館だというのに実作品が一点もないことだ。
ガイドさんからは、祐三とも親交があった中村彝(つね)のことや、彝と新宿中村屋との関係などの話も聞くことが出来た。
私たちが歴史散策クラブのメンバーだと云うので、多分歴史に詳しいと思ったのか、ガイドさんは下の年表まで作成しておいてくれた。
その後、自性院へ向った。
ここでは、特記すべきことが2つある。
その一つが猫地蔵である。
文明9年(1477)に太田道灌と豊島恭経が江古田ヶ原で戦った際、道に迷った道灌を一匹の黒猫が自性院まで案内し危難を救ったため、道灌はこの猫を大切にし、死後に地蔵尊を造り奉納したと伝えられている。「猫地蔵」は毎年2月3日の節分の日にご開帳される。
次が私年号板碑である。
高さ41㎝の小型の板碑で、阿弥陀の種子の下に供養者の名を刻み、その左右に「福徳元年」「十一月」の紀年銘を記している。福徳と云うのは私年号で延徳2年(1490)にあたると推定される。私年号は室町時代に多く、政令が行き届かなかったことを示す。区指定文化財のため一般公開は2月3日のみ《住職談》

目白学園正門を入ってすぐ右手の佐藤重遠記念館内にミニ遺跡博物館がある。
目白学園から次に訪れる中井御霊神社一帯は落合遺跡といい、縄文時代から奈良時代に及ぶ複合集落遺跡が発見され、ここにはその出土品が展示されている。
縄文時代には100軒ほどの住居の大集落があったと推定され、中心部に広場をもつ44軒の「馬蹄形集落跡」が発見されている。また、神田川・妙生寺川流域からは弥生時代後期(2~3世紀)の集落が発見されている。奈良時代の集落からは土師器焼成窯が発見されたほか、この遺跡独特の落合型坏(つき)と名付けられた土器が出土している。
大学の職員に雨のため食事をとる場所がないと相談すると、快く学食に案内してくれた。午後1時を過ぎていたのが良かったようだ。久しぶりに若者に混じって食をとった。
小雨は降ったり止んだりしていたが、中井御霊神社に向った。
中井御霊神社の創建は不明であるものの、古くから落合村中井の鎮守でした。本殿は江戸時代の建造、明治・大正時代の拝殿・弊殿とともに区指定の文化財。社頭の狛犬は区内最古のもの。
毎年1月13日には正月の弓神事「備射祭」が行われているが、その際に的を描くために使われるコンパスである「分木」や「備射祭絵馬」は、ともに区指定の文化財になっている。このほか、「雨乞いのむしろ旗」「古文書」ともに区指定文化財のため非公開となっている。むしろ旗は、江戸時代に農民が雨乞いの行事で用いたもので「竜王神」と墨書された貴重な民俗資料れある。公開されていないのが残念であった。

「林芙美子記念館」でも、ボランティア・ガイドにお願をして館内を案内して頂いた。
林芙美子記念館は林芙美子が昭和16年から昭和26年に亡くなるまで住んでいた。この家は芙美子の意向を強く反映させたもので、数寄屋造りの平屋建てである。家の各所に芙美子らしい工夫が凝らされていると、ガイドさんはその一点一点につき詳しく説明してくれた。
また、当時としては珍しい電気冷蔵庫や電気洗濯機などの備えていたと云うから驚きである。
ここでは、彼女の代表作である「うず潮」「晩菊」「浮雲」などを執筆している。
次に訪れた染の里「二葉苑」は区内でも古い歴史を持つ染色工房だそうだが、私たちが興味を持つものは少なかった。
注)当日雨天のため写真の一部は下見の時のものを使用しています。
【参考文献:新宿区観光協会発行資料等】