岩殿山城跡を訪ねる

◆岩殿山城主小山田信茂と武田勝頼
小山田氏は坂東八平氏の秩父氏の血を引くとされています。(異説もある)
天正9年12月(1581)、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始。勢いに押される武田勝頼軍。
再起を図るための真田昌幸は自身の要害・岩櫃城(いわびつじょう)へ勝頼を誘いました。しかし、武田の側近の長坂光堅(ながさか・みつかた)が小山田信茂を頼り郡内の岩殿山城へ逃れることを主張したといいます。小山田信茂も「吾妻は雪深く遠路。何より真田は仕えてから浅い他国衆。それならば我が郡内の岩殿山城へ」と説得したそうです。
結局、勝頼は長坂光堅や小山田信茂の進言を受け入れ岩殿山城に退くことを決定します。 小山田信茂は母を人質に出し、勝頼を迎え入れる準備のため一足先に岩殿山城へ戻ります。
お城に戻り家臣に話したら猛反対にあったとも考えられます。戦闘力の衰えた勝頼を郡内に迎えて戦っても勝ち目はナシと判断したためでしょう。
家臣、領民を守るのも仕事である領主・小山田信茂は断腸の思いで勝頼の受け入れを拒否することに決めたのでした。
家臣に人質の母を救い出させた小山田信茂は笹子峠に差し掛かった勝頼一行に威嚇射撃!!裏切りの瞬間です。
行き場を失った勝頼は天目山で自刃。時に天正10年3月11日でした。
落城時に信茂の側室が赤子を背負って逃げたのですが泣き止まず、敵に見つかってしまうで泣く泣く岩の上からこの子を落としたと云われます。(稚児落とし)
勝頼自刃後に小山田信茂は甲州攻めの総大将・織田信忠がいる甲斐善光寺に出向きます。主君を裏切り織田軍についた功績から領土安堵の許しを期待していたのですが、結果は、主君を裏切った不忠者として、一族共々処刑されてしまいました。
時に天正10年3月24日。武田家滅亡からわずかな日しか経っていなかったのです。
同じく武田家を裏切った穴山氏や木曽氏はお咎めナシだったそうです。(完)

◆行程
集合:7時45分 所沢駅2F改札口内
所沢(7:48発)⇒東村山(7:51着/8:00発《4両目付近に乗車》)⇒国分寺(8:12着/8:24発《快速高尾行》)⇒高尾(8:50着/9:01発《普通・大月行》)⇒大月着(9:47)
大月駅(10時出発)⇒⇒(約25分) ⇒⇒岩殿山丸山公園「ふれあい館」(約15分トイレ休憩)⇒⇒(約50分)山頂
山頂(昼食・散策《約60分》) ⇒⇒約40分⇒⇒ふれあい館(約15分休憩)⇒⇒25分⇒⇒大月駅
大月駅には2時から2時30分ころに戻る予定です。
復路
大月(14:15) ⇒高尾(14:51/15:01) ⇒国分寺(15:23/15:32) ⇒東村山(15:42/15:45) ⇒所沢(15:48着)
その他の大月発列車: 13:13. 13:45. 14:48. 15:04(特). 15:19(始). 15:47. 16:01(特). 16:13(始). 16:33
◆費  用:所沢⇔大月(往復)2,360円
◆持 ち 物:弁当、飲料水、タオル、手袋、雨具、敷物 他
  靴はトレッキング・シューズが好ましい。ストックを持っている人は持参すること。

歴史散策クラブの一員であるOkさんが武田氏にゆかりのある岩殿山に行きたいと云うので、希望者を集め出掛けることにした。参加者は6名。
所沢駅7時45分集合であったが、予定の時刻よりも早く集まったので1台前の電車に乗車し、国分寺経由で大月に出た。大月には予定よりも30分弱早い9時22分に到着。軽く準備体操を行い、9時36分に大月駅を出発した。
天気は快晴。この季節としては暖かである。日中は20~21℃になると云っていた。
登山口から岩殿山に登り始めると直ぐに紅葉の木々の間から富士山がその姿を現す。
思わず歓声が飛び交う。いつ見ても富士山は美しい。
◆岩殿山丸山公園「ふれあい館」
◆鏡岩をバックに参加者全員での記念撮影
◆館内では、白簱史朗の写真展が行われていた。
◆富士山を眺めながら山を登る。
第二の関門と呼ばれる巨大な自然石を利用して出来た城門を通り抜け更に上を目指す。まだ、笑みがみえる。元気だ!!
◆山頂(標高634㍍。東京スカイツリーと同じ高さである。)大月市の標高が約360㍍だから274㍍登ったことになる。正面の詩碑は乃木希典が明治12年に登頂した際のものと記されていた。
◆山頂から富士山を望む
◆岩殿山城跡:立て看板がなければ、山頂周辺のなだらかな起伏地としか思えない。
◆鏡岩上付近から眼下を望む
◆晩秋を偲ばせる木々