赤塚の遺跡を歩く


日 時:平成28年3月12日(土)
集 合:9:00 所沢駅2階改札内
出席者:16名
行 程:
所沢駅9:079:32池袋駅9:399:44巣鴨駅9:4910:12西高島平駅🚻10:20(20)区立郷土資料館🚻[40](3)赤塚城址本丸跡[12]→<コンビニ>(20)乗蓮寺・東京大仏🚻[15](5)区立赤塚植物園・昼食🚻[55](5)泉福寺[10](2)松月院大堂[8](5)松月院🚻[20](15)沖山遺跡[10](25)高島平駅🚻 【解散15:00頃】
費 用:交通費往路:所沢→西高島平 750円(IC 740円) 
       復路:高島平→所沢  750円(IC 740円)
担 当:2班

天気予報では、明日まで真冬並みの寒さが続くと言っていたとおり、朝からどんよりと曇っていた。そして昼頃には小雨が降り出したこともあり一日をとおして寒い中での散策だった。

◆板橋区立郷土資料館
1階の常設展示室は、原始・古代の板橋の「生きる」、江戸・明治時代の農村文化の板橋の「暮らす」、明治から昭和時代の戦時下の板橋の「戦う」の3つのテーマによる展示を模型と映像を複合的に用いたパノラマ展示で構成されていた。
2階は企画・特別展示室で「江戸時代の縁切り事情」の企画展を行っていた。
赤塚城本丸跡
郷土資料館を出て南の鬱蒼とした樹木の中の階段を上ると台地上の広場にでる。
広場中央の東寄りに「赤塚城本丸跡」と刻まれた石碑がある。
赤塚城は、下総国(千葉県)の市川城から逃れてきた千葉実胤(サネタネ)・自胤(コレタネ)兄弟のうち、弟の自胤が康正2年(1456)に入城したと伝えられている。千葉兄弟は太田道灌に助けられ、この武蔵の地で勢力を培い武蔵野千葉の基礎を築いた。その後、武蔵野千葉は小田原の北条氏が武蔵国に進出してくると、これに従い大正2年(1590)の小田原落城とともに命運をともにし、赤塚城もその時に落城した。
乗蓮寺・東京大仏
乗連寺は浄土宗の別格本山で応永年間(1394~1428)の創建と伝えられている。もとは旧中山道の板橋仲宿にあって、将軍鷹狩りの御善所に指定されるなど宿場きっての名刹であったそうだ。首都高速5号線建設のため1973年に赤塚城ニの曲輪跡の現在地に移転した。
本堂に向って右側に青銅製の阿弥陀如来座像がある。1977年に完成した昭和の大仏で東京大仏と呼ばれている。
また、境内には「天保飢饉供養塔」(下左)や「がまん鬼」(下右)の石像などがあった。
「がまん鬼」は多聞院の境内にもあったことを思い出す。
◆板橋区立赤塚植物園
ここで昼食を予定していたが小雨が降って来た。屋根のある場所もなくベンチに腰掛けて食事をとった。幸い雨は大降りにもならず間もなく止んだ。
訪れた時季が悪い。花らしい花もなく植物園は閑散としていた。ここで撮った写真は1枚もなかった。
泉福寺
真言宗智山派で京都の智積院の末寺。鎌倉時代からの古刹であったと思われるが、今は小さな本堂があるのみで昔の面影はない。境内には16基の板碑が無造作に置かれている。梵字が分かるものは釈迦三尊の1基、他に阿弥陀一尊と同三尊である。
◆大堂
ここは勝参山と号する大堂で寺の管理は近くの松月院がみている。
大堂は区内最古の寺院で平安時代初期の大同年間(806~808)の開山と伝えられている。大堂とは、ここでは阿弥陀堂のことだが、南北朝時代の建武・延元の頃(1334~40)は七堂伽藍をそなえた大寺院あったという。しかし、1561年越後の長尾景虎(上杉謙信)が小田原の北条氏康を攻めた際に兵火にかかって堂宇のことごとくが焼失した。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代末期の制作。梵鐘(写真上左)は国重要美術品に指定されている。なお、鐘楼の実物は現在区立郷土資料館に保存されている。
◆松月院
万吉山宝持寺松月院と云い、元は真言宗の寺であったが千葉自胤が1492年に寺領を寄進して同時に曹洞宗に改宗し名を松月院と改めたと云われている。境内の墓地の一角には千葉自胤夫妻の墓と伝えられている墓碑がある。
また、境内には天保12年(1841)に徳丸ヶ原で洋式の砲術訓練を行った高島秋帆を顕彰する大砲形の碑(写真上左)がある。
◆沖山遺跡
沖口公園がある場所は、昔は沖山口と呼ばれていた。沖山遺跡と云う名前はこの昔の字名に由来する。沖山遺跡の中で特に注目されるのは、弥生時代の溝をめぐらした環濠集落である。溝は沖口公園の一画をとおり、都立赤塚公園沖山地区をめくっており、集落は現在の広場を中心とした部分にあったと考えられる。

追記:遺跡や城跡の一部は公園として残されているものもあるが、殆どは宅地に造成され、その上にはビルや住宅が立ち並び往時を偲ぶことは難しい状態であった。