塩船観音のツツジと周辺の古刹・名刹を訪ねる

1.日 時: 平成28年4月27日(水)
2.集合場所: 所沢駅2階改札内
3.集合時間: 9時00分
4.行 程
所沢駅⇒小平駅⇒拝島駅⇒東青梅駅⇒天寧寺⇒師岡神社・勝沼城跡⇒宋泉寺⇒塩船観音寺⇒ツツジ園(昼食後14集合・出発)
⇒塩船観音入口⇒河辺駅⇒所沢(16:00着)
(参考)帰路は往路を戻るコースの他に、河辺駅入口15:21発入間市駅16:00着の西武バスがある。(料金は400円)
5.費 用:交通費 1,110円 (所沢―東青梅(河辺)往復鉄道料金及び塩船観音入口→河辺駅入口のバス料金)& 入山料300円(塩船観音)
最近では珍しく多くの人が出席した。当初は20名であったが、昨夕になり1名の欠席の連絡があったようだ。それでも19名の人が出席した。
昨日までとは打って変わり、朝からどんよりとした空模様。夕方まで持ってくれればと祈る思いで家を出た。(担当:1班)
《東青梅駅の北口に出て青梅街道を左へ。踏切手前の交差点を右折。広い道路だが、頻繁にトラックなどが通過するので注意しながら歩こう。青梅第四小の先の三叉路を右へ入りしばらく進むと右手に杉並木も見事な天寧寺の参道に出る。》
◆天寧寺


天寧寺は高峯山と号し、曹洞宗永平寺に属する関東地区の名刹である。寺の創立は寺伝によれば、天慶年間(938~946)に平将門の開創であって、高峯寺と称し、顕密兼修道場であった。其後兵火に罹り、堂宇は焼き尽され廃寺となったが、文亀年間(1501~04)、此地の領主将門の後胤(コウイン)三田弾正平政宗の帰依によって、曹洞宗甲斐国中山広厳院(寛正元年(1460)古屋対馬守の開基)の末寺として伽藍が再興され(第一期)、開山第一世として、広厳院第二世一華文英和尚が招請された。以来礼学盛んにして曹洞の宗風を宣揚(センヨウ)し、参学の徒が四方より集まった。当時後柏原天皇は、当寺開山和尚に深く帰依し、永正三年(1506)、勅(チョク)して紫衣(シエ)ならび神獄通竜禅師の号を賜った。また、詔勅(ショウチョク)して天下の安寧と改称して山を高峯と号した。
天寧寺の伽藍配置は曹洞宗禅宗七堂伽藍で東京都史跡天寧寺境域として東京都の文化財に指定されている。
☆惣門(右)と山門(左)
山門の左右には二天像の多聞天と増長天の大きな像ある。
☆中雀門
☆法堂
《青梅第四小までもどり左折する。古い家並みや畑の中に続く静かな道を進むと左手に長い階段とその先に巨大なシイの木が見える。師岡神社だ。》
◆師岡神社
師岡神社は、宝蔵山光明寺創建に際して寺門守護として嘉元年間(1305-1308)に熊野三社大権現と称して勧請したといい、明治2年に師岡神社と改称、明治6年村社に列格した。
祭神は、伊邪那美命 (いざなみのみこと)、速玉之男命 (はやたまのおのみこと)、
事解之男命 (ことしろわけのおのみこと)を祀る。
境内面積は79.05坪(261平方メートル)である。
境内にあるシイの巨木は、師岡神社の御神木で西暦1490年代の後土御門天皇(ゴツチミカドテンノウ)の中期に植樹されたものと云われている。
樹のデータ 下:幹周5.7m 樹高約12m(1988年環境庁調査)
上:幹周4.3m 樹齢約500年 青梅市指定天然記念物。
 《師岡神社の石段を降り、光明寺の裏手にある墓地を通りすぎると、左手脇に林道への入口がある。この林道の右手に広がる林が勝沼城跡だ。》
◆勝沼城跡
正確な築城時期は不明だが、鎌倉時代の末期にこの「杣の保(ソマノホ)」(青梅市周辺)を支配した三田氏の居城であった。三田氏は平将門の後裔(コウエイ)を名乗っているが定かではない。 室町期の三田氏は関東管領・山内上杉氏の被官となった。永正六(1509)年には連歌師の宗長が 勝沼城の三田弾正忠氏宗を訪問していることが「東路の津登(アズマジノツト)」に記されている。小田原北条氏の侵出により一時北条氏の配下になったが、永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣に呼応して、 翌永禄四(1561)年の小田原城包囲戦に参加している。謙信が越後に帰陣したのちは武蔵周辺の豪族の多くは北条氏にふたたび降ったが、三田氏は頑強に抵抗し、滝山城の北条氏照の攻撃を受ける。永禄六(1563)年にはこの勝沼城を放棄、辛垣城(カラカイジョウ)に籠城し抵抗するがこれも翌永禄七(1564)年に落城、三田綱秀は太田資政(スケマサ)を頼って岩槻城に陥ち延びたが、そこで自刃して三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後は師岡山城守将景が入城し、「師岡城」と改称したが、天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。
城跡とは大体こんなものだ。しかし、数百年にここに城が存在し、勢力争いの歴史と共に風化していったことは事実である。当時の武将たちが、さまざまな想いを巡らせて暮らしていたことを想像しながら歩いてみると、また印象も異なるかもしれない。
《勝沼城跡の城山通りを戻り光明寺脇を左折し進んで行くと、ほどなくして妙光院の入り口が見えてくる。道に沿ってさらに進む。宗泉寺の入り口まで来ると真っ先に目に入るのが、門の左脇に咲く丁寧に裁断された真っ赤なつつじだ。》
◆宗泉寺のカヤ
階段を登ると、左手には鐘楼堂、右手には小さな稲荷神社と、それを見守るかのように大きなカヤの木が聳え立っている。
ここの鐘楼は、徳川綱吉の時代に作られたもので、一度は第二次大戦末期に政府に没収されたものの、信徒の願いにより再びこの地に戻されたという歴史を持つ。一方、カヤに関しては正確な樹齢は明記されていないが、「昭和30年9月の台風で大枝が折れたが、その枝の樹齢130年だった」というからかなりのものである。こちらも都の天然記念物に指定されており、「宗泉寺カヤ」として広く知られている。
カヤ樹高約25m、幹周り4.6m。
【宗泉寺本堂】
◆塩船観音寺
当観音寺は山号を大悲山と称し、寺は地名の塩船を付けて『大悲山塩船観音寺』と云う。塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ舟の形に似ており仏が衆生(シュジョウ)を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟(グゼイノフネ)』になぞらえて塩船と名づけられた。
大化年間(西暦645~650年)に若狭国の八百比丘尼(ヤオビクニ)が一寸八分の紫金の観音像を当地に安置したのが開山と伝えられ貞観年間(859~877年)には安然和尚(アンネンオショウ)が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられている。
当寺の御本尊は十一面千手観世音の木彫立像で像身四尺六寸(1.4m)鎌倉時代
(文永元年西暦1264年)の作にして宋朝様式の影響を多分に受けている。
塩船観音寺は真言宗醍醐派の別格本山で、総本山は京都山科にある醍醐寺 聖宝理源大師(ショウボウリゲンダイシ)によって開かれたお寺である。聖宝師は、弘法大師空海の実弟で奈良東大寺の別当でもあった真雅僧正(シンガソウジョウ)より教えを受けた方だそうだ。
【写真上中央は江戸キリシマツツジ系「東錦」右は敬宮愛子内親王のお印の「ゴヨウツツジ」
塩船観音寺裏山は、有数のツツジの名所であり5月の花の季節はツツジ祭もあり賑やかである。
【八百比丘尼(ヤオビクニ):若狭国(福井)に暮らしていた漁師の娘は、不老不死になれるという人魚の肉を食したが、不老不死ゆえに家族友人に先立たれ、永遠にその最期を見なければならない運命を背負う。
その後、彼女は出家して「八百比丘尼」と呼ばれる僧侶となり、全国を行脚したと言われており、日本各地にそれにまつわる伝説が残されている。】

後記:「清元」までKjさんが出てくると云うのでThさん、Abさんの4人で飲むことになった。清元が開業30年と云うことでKjさんが花束を持って来ていた。
さすがKjさん!よく気付いた!
女将が喜んでくれたのはもとよりのこと。長年通わせて頂いている我々にとっても嬉しかった。Kjさんに感謝! 帰り際に女将を囲んでみんなで記念撮影!!
あァ!人物が写ってない?