所沢の野水と遺跡

日 時:2010年4月24日(土)
昨日までの雨も上がり好天気になった。今年は寒暖の差が大きく、今日は気温が低い。朝の気温は6~7度。日中でも14、5までとのこと。風が冷たい。
10時新所沢集合し、10時4分発フラワーヒル行きに乗車した。
行程:
10:04 【新所02】フラワーヒル行き西武バスに乗車<6分> ↓               
10:35 【バス停・所沢新田】徒歩出発
▼所沢新田の開拓:三富新田開拓後の1700年代中ごろの開拓地
<8分> ↓0.5km

10:42 ①改道碑と石仏(8分)

▼馬頭観音菩薩、讀誦普門品・一萬巻供養塔、西国・坂東・秩父巡礼供養塔(天保2年、平塚新田)掩たい壕
<10分> ↓0.6km 







11:00 ②駿河台遺跡(20分)
▼11ヶ所の石器集中と礫群2基が確認。ナイフ型石器やスクレバー(掻器)等253点が出土。
縄文時代早期の土器も出土、不明な点の多かった砂川掘流域の状況が明らかになった。
<10分> ↓0.6km





11:30 ③下富ダム(10分)

▼下富ダム:大きさ:94000㎥。米軍基地の排水対策としてS29年に作られた。
S31年飛行場に降った雨が、下富から流れ出し北永井までの水路が溢れ、油でスイカ・牛蒡に大被害。
← 下富ダム取水口
砂川の水量が一定量を超えるとダムに水が流れ込むようになっている。
<20分> ↓1.3km


12:00 ④野水箇所・下富(10分)

▼野水:浅い谷、凹地で集中的な降雨の後に出水する。畑一面に水が湧きだしているのを60年ぐらい前にみている。土手を切った例があり下流の畑地に流れ込み争議になった。
<20分> ↓1.3km






12:30 ⑤富の地蔵様【縁日】(昼食・45分)

▼4月24日、8月24日が縁日、地元三富新田では富の地蔵さまと親しまれている。子育て地蔵尊として毎年老若男女で賑わう。境内には坂の上田村麻呂伝説、昔話・泥棒地蔵、青木昆陽の甘藷の碑がある。
<15分> ↓0.8km




13:30 ⑥野水箇所・永久保(15分)

▼野水:浅い谷、凹地で集中的な降雨の後に出水する。畑地の中に現在でも水の流れた面影を残すU字抗がある。屋敷にある井戸水が上がると畑の中に水が湧いてきたという。
久保はくぼ地を表し、地形から地名になった際、良字をあてて書いたという説がある。
<5分> ↓0.3km




14:12 【バス停・永久保】所沢駅東口行きに乗車

○野水型遺跡の発見と提唱
武蔵野台地中央部には旧石器時代の「遺跡は無い」という通説に対して、遺跡地図の空白を埋めていった研究者がいた。森野譲氏である。森野氏が発見した遺跡には、その立地に特徴があった。砂川は中流部に至ると自然流路が不明瞭になる。つまり中流部では水流が途絶えてしまうのである。不老川など、武蔵野台地北部の小河川に共通する特徴である。
そこには浅い谷や凹地があって、集中豪雨の後などに出水することがあり、地元では野水と呼ばれている。森野氏はその野水に接して遺跡が分布することに気づき、「野水型遺跡」という類型を提唱した。おそらく野水は、氷河時代にも同じように、時おり水が沸く場所であった。野水地形と野水型遺跡は砂川の中流部の遺跡空白地帯に分布している。
砂川の上流・下流には湧き水があり中流部より安定した水環境にあったと考えられる。しかし、流域遺跡群の構成は、武蔵野台地主要部とは異なっていた。  [武蔵野に残る旧石器人の足跡(野口淳著)から]

○武蔵野台中央部(三富新田内)旧石器時代の遺跡
☆駿河台遺跡(2008.県道所沢・堀兼・狭山線・下富地区)旧石器時代/縄文時代
11ヶ所の石器集中と礫群2基が確認された。ナイフ型石器やスクレバー(掻器)等253点が出土した。また、縄文時代早期の土器も出土しており、今まで不明な点の多かった砂川掘流域の状況が明らかになった。
☆中東遺跡(関越自動車道・上富地区)旧石器時代
現在まで3000点を超える石器が出土している。約2万8千年前~2万年前まで人々が石器を作って狩をしていた場所であったことが分かった。遺跡から出土した石器は、伊豆の柏峠の黒曜石であることが分かっている。
また遺跡周辺には現在流れている川はないが、太古の昔、遺跡の近くを川が流れていたことが分かっている。しかし、その川は旧石器時代の終わりには水量は少なくなり、次第に埋まってしまった。その後、人々がこの地に再び暮らし始めるのは、江戸時代中頃の三富開拓を待たなければならなかった。
☆南止遺跡(ミナシズイセキ)(三芳町上富)・・・中富南エステシティの東側のセメタリィ所沢霊園地内
☆中西遺跡(三芳町上富)・・・バス停・中西   ☆上永久保遺跡

○迯水(逃水/にげみず)について (武蔵野夜話[齋藤鶴磯著]から)
逃水は皆人の知るところなれどもその実説を知らずして語るもの多し。武蔵野中の人も逃水は有ても無くても農民のかかわらぬことゆえ、詮索するものさらになし。~略~
その土地に住居せずして思い思いの臆説をなすゆえ誤りのみを説いて拠り所なし。僕はその地に住居せしゆえ春の末、夏の初めにたびたび見たることあり、武蔵野中の人見たるもの有ても心づかぬ人多し。まま、また知れる人もあることなり。一体は原中の気にして夜中、土中よりむし昇りし靄(もや)の一面に引き渡したるを風にて地上に吹しくゆえ自然と白く水の如く見ゆるなり。彼方より来る人を見れば腰より下は靄にてみえず、水中を渡るかと疑えば、此方をもまたかなたにて水ありと思えるなり。近寄てさきに水ありやと問ばなしとこたふ。朝五つ半時頃になれば陽気盛んになり、しだいしだいに靄消えて跡形もなし、これを迯水という。
また、夕方七つ半時頃よりまま見ることもあり。前にも言える如く何れ原中の気と知るべし。もつとも三月の末、四月上旬までの交(あい)にまま人の見る事なれども家居多き所にはかつてなきことなり。昔より言い伝ふるは多摩郡小金井村の辺りより田無村のほとりまでの原にてたびたび見たりし人有しと。~略~
近頃は野呂澤(ところさわ)村の原より来り留村(※)・永井村の交の野又は留村より北大野原(※)の辺りにてをりをり見ることなり。
※留村とは三富新田、 ※北大野原は、現在の下富(霞ヶ台)の北東1.5kmほどにある。
☆逃水について 
他に陽炎説、蜃気楼説、蒸気説などがあり、武蔵野の逃水(※)といわれて有名になり、古歌にもしばしば読まれている。
夫木集  東路にありといふなる逃水の にげかくれても 世を過ぐる哉  俊 頼
※武蔵野の逃水
春から夏にかけてのよく晴れた日に武蔵野を歩くと、やや遠方に水たまりのような流水の
ようなものが見える。武蔵野の逃水という。あるいは、逃水とは和泉が枯れやすく又ほかに発生し易いことの意味だともいう説がある。
【資料提供:大河原 功氏