見沼たんぼ地域ガイドと歩く

1. 日 時    5月14日(土)小雨決行 予備日 5月21日(土)
2. 集合場所  所沢駅2階改札内
3. 集合時間  午前9時
4. 行 程
所沢駅発(9:11)→新秋津発(9:22)→東浦和着(9:46) 10:00出発
徒歩コース(約5㎞): 東浦和駅→見沼代用水(西緑)→見沼通船堀公園→鈴木家住宅→芝川八丁堤→水神社→見沼通船堀(東緑)→木曽呂富士塚→金崎斜面林→川口自然公園(昼食)→芝川第一調節地→桜橋→東浦和駅(解散・14時頃)
5. 費 用  交通費(所沢=東浦和 往復1080円)
◆東浦和駅
◆見沼代用水(西縁) 
八代将軍・吉宗の時代、江戸の人口は100万人を超し、水田を開発して米の増産が急務であった。
享保13年(1728)井澤弥惣兵衛為永は広大な見沼溜井の水を抜き、中禅寺湖の面積に匹敵する約1260haの新田の開発をする。と同時に溜井に代わる用水、つまりは「代用水」をおよそ60kmも離れた利根川から引いた。
◆見沼通船堀公園
見沼代用水西縁から見沼通船堀の水路に沿って作られたさいたま市管理の公園で、うっそうとした竹林の中に木道が整備された趣のある散歩道である。地元では「たけのこ公園」呼ばれて親しまれている。春には桜、ユキヤナギ、モモ、菜の花などがいっせいに咲き揃い広場は花見客で賑わう。
平成19年、都市公園法施行50周年を記念し、日本公園緑地協会などで構成する記念事業実行委員会が選考する「日本の歴史公園100選」に選出された。
◆附島氷川女体社
一間社流造りの小本殿である。身舎の間口が69.0cm、奥行61.0cm、向拝の出が51.0cm。建立は江戸時代初期と考えられる。
祭神は奇稲田姫命。(古事記では櫛名田比売)
八丁堤はこの氷川女体社の所から川口の木曽呂へと繋がる堤防。(現在は堤防の上を赤山街道が通っている)
*八丁堤 (ハッチョウツツミ)とは?
寛永6年(1629)、伊奈忠治が低地・沼地であった見沼の狭小部分に堤を築き、見沼溜井を作った。堤の長さが約八丁(約870㍍)あったため、八丁堤と呼ばれるようになった。この結果周囲40㎞1200haに及ぶ広大な見沼溜井ができ、下流地域の村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾濫したり、旱魃の時は水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、約100年後の享保12年(1727)に干拓されるに至った。
◆鈴木家住宅
鈴木家は高田家とともに、(幕府勘定吟味役)井沢弥惣兵衛為永に従い、享保12年(1727)、今から284年前見沼の干拓事業に参加。その功績が認められ、見沼通船堀の完成と同時に鈴木家(鈴木文平)と高田家(高田茂右衛門)は幕府から水運利用権が与えられ、見沼通船差配役(船を通す指示役)に就いた。
鈴木家は江戸時代後期に作られた母屋、米蔵その他の建造物が残され、見沼通船堀同様史跡の指定を受けているが、今も住居として使われているため居宅部分は公開していない。なお、敷地内には通船堀で使われたひらた船の模型が展示されていて、夕方5時まで見学可能。
◆水神社(すいじんじゃ=地元では「水神様」)
見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732)6月の創建と伝えられている。祭神は水の神・雨乞いの神である罔象姫命(ミツハノメノカミ)[古事記では弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という]。本殿は大正12年9月1日の大地震(注:関東大震災)により全壊し、同13年に再建された。江戸時代、大量輸送の担い手は船で、水神社はこういった仕事に携わる人々が水難防止を祈願して祀ったもの。
◆見沼通船堀(東縁) 
見沼代用水東縁と芝川、西縁と芝川をそれぞれつなぐために享保16年(1731)に掘られた運河。見沼代用水戸芝河には3メートルの落差があるため、それぞれ途中2か所に閘門式の堰を設け、船の航行を可能にした。
閘門式運河では日本最古の部類に入る。
◆木曽呂の富士塚
木曽呂の富士塚は今から211年前の寛政12年(1800)11代将軍家斉の時代に富士講信者の蓮見知重により築造された埼玉県内最古の富士塚。富士山までの直線距離:約105km。頂上に見立てた窪みや塚をくりぬいた胎内くぐりは有名(現在は閉鎖されている)、高さ5.4m(海抜標高22.7m)、直径20m。
平成18年2月、皇太子殿下が梓(ミズメ)と安行桜を植樹(写真右上)
◆川口自然公園
見沼田んぼにはすばらしい公園がたくさんあり、「川口自然公園」もそのひとつ。武蔵野線の直前、見沼代用水東縁が蛇行するあたりに公園が広がっている。広さは約3.2haで、それほど広い公園ではないが、「川口自然公園」は他の公園には類を見ないほど自然が残っている。見沼低地にあり、湿地の自然を残した公園で、湿地には絶滅が心配されるメダカもたくさん泳いでいる。周囲には、雑木林などの自然地も残っており公園内でもカブトムシやクワガタが見られる。
青空の下、芝生にビニールシートを敷いて座り込み、ここで昼食をとった。
◆見沼自然の家
川口自然公園の北にある見沼代用水沿いに建っている。もともとは江戸時代末期の古い民家だったが、それを川口市が譲り受けて、見沼たんぼの自然観察の拠点として整備した。公益財団法人・埼玉県生態系保護協会が管理している。
見沼自然の家から芝川第一調整池に向うあぜ道は趣がある。あぜ道の脇には小川が流れザリガニを釣っている親子の姿が多く見受けられた。
◆芝川第一調節池
昭和33年の狩野川台風を契機に見沼田圃の遊水機能が見直され、昭和54事業着手、同時に100年に一度発生すると予測される雨量を想定し、芝川沿いに遊水機能を補完するため、7つの調節池が検討された。完成済みの大宮第2公園の第七調節池より貯水容量で約8倍、面積で約10倍の大規模な調節池。
整備計画はレクリエーションの場・災害時の避難場所・洪水の調節池ばかりでなく、見沼田圃の原風景を復元・再生し、生物の生息環境を配慮した事業。
<四本竹遺跡>
芝川第一調節池の工事で発見された、御船祭の御旅所と伝えられる遺跡で790本の竹が発見された。見沼田んぼがまだ開拓されていない沼だったころ、2年に一度御船祭りがおこなわれ、みこしを船に乗せて漕ぎ出し、四本竹を沼に立てて祭ったことから、少なくとも御船祭は197回続いていたことになる。
◆桜橋
芝川に架かる木製の橋。ただし橋脚はコンクリートに作り替えられていた。長さは約28m、幅員は3.6mで重量限界が2.0tの表示がある。
芝川は見沼たんぼの中央を流れ見沼中悪水とも呼ばれていた。かつては芝川両岸は緑なす水田地帯で通船時代にも芝川から加田屋川を経て染谷河岸に着いた船もあった。この辺りの土手にはエノキの大木が並び、のどかな河畔風景を醸し出している。見沼地域を代表するような風景である。 
東浦和駅では約束通り六蔵大福を買って帰った。
【資料:見沼たんぼ地域ガイドクラブ資料より】