鎌倉幕府滅亡の跡と大仏を訪ねる~新田義貞の鎌倉攻めコース~(ボランティアガイド付)

1.日時:平成2878日(金)
2.集合時間:815分厳守 所沢駅2階改札内
3.行程:所沢822~横浜9:42 乗換JR横須賀逗子行9:57~鎌倉1021
   鎌倉駅1036 =江ノ電=稲村ヶ崎駅1050~稲村ヶ崎・公園・昼食(11001220)~十一人塚(12251230)~日蓮袈裟掛の松(12351240)~針摺橋(1245)1250)~極楽寺(12551320)~成就院(13301340)~御霊神社(13501400)~大仏(14251500)~長谷駅(1520)=江ノ電=鎌倉駅(1530)解散1540
鎌倉発16:07湘南新宿線に乗り池袋経由で帰宅。
4.費用:交通費往復(江ノ電含む) 2,820円 
  ガイド料6名以上1人500円、大仏入山料 200円 
5. 持ち物:弁当、敷物、日傘、飲料水
担 当:3班
出席者:9名

◇稲村が崎(神奈川景勝50選)
極楽寺方面からの山続きとなっている岬の形が、稲束を積み上げたように見えるので稲村ガ埼と
名付けられている。鎌倉時代には「西の境」とされ、霊仙山から稲村ガ綺まで一連の山が鎌倉への
通行を遮り、岬の下の砂上にわずかに通れる程度の小道があったようだ。
元弘3年(1333)5月8日、後醍醐天皇の綸旨をえた新田義貞は150騎で挙兵し討幕に向かう。
小手指ケ原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで幕府軍に勝って藤沢の遊行寺あたりに本陣を置いたのが5月17日。新田軍は70万人に膨れ上がっていた。(実際はその1/10とみられる)
18日より第1軍大館宗氏を大将とする10万騎は極楽寺の切通を攻め(対する幕府軍は大仏貞直
率いる5万騎)、第2陣堀口貞満を大将として10万騎は巨福呂坂切通を攻め(対する幕府軍は北条守時率いる6万騎)、本陣新田義貞・義助兄弟の50万騎の一部が化粧坂切通を攻める(対する幕府軍は金沢貞将率いる3万騎、幕府本軍は10万騎)。しかし防備が固く、鎌倉内に入れなかった。
19日極楽寺の切通を突破し由比が浜の稲瀬川に入った大館宗氏以下11人の将が幕府軍の本間山城左衛門らに討ち取られた。
20日新田義貞は本陣を脇屋義助に任せ2万騎をさいて陣を聖福寺におき極楽寺切通攻めにかかった。
21日夜半義貞は黄金の太刀を海中に投げ入れ竜神に祈願した。すると、みるみる潮がひき幕府の兵船が沖へ20町も流され新田軍は一気に鎌倉入りをした。海沿いの道を隔てた雲仙山山頂には仏法寺かあり五号枡という遺跡がある。海岸からばかりでなく雲仙山の攻防を制した新田軍はさらに極楽寺切通と三方から鎌倉入りを果たしたものとみられる。
22日鎌倉幕府軍は後から挟撃され壊滅し北条高時は小町の執権屋敷を出て東勝寺に入り自害した。一緒に自害した一族門葉283人、一緒に死せるもの870余人。幕府は滅亡した。
稲村ヶ崎には ○コツホ博士の記念碑 ○ボート記念碑等がある。
                《稲村ケ崎より七里ヶ浜方面を望む》
◇十一人塚
5月19日極楽寺の切通を突破し由比が浜の稲瀬川まで入った大館宗氏以下11人の将が幕府軍の本間山城左衛門らに討ち取られた。
子孫が慰霊し十一面観音をお堂に納め供養した。しかし討ち取られた場所はもっと鎌倉の中、御霊神社から稲瀬川の辺りだったようだ。碑は文久2年(1862)に建てられたもの。

◇日蓮袈裟掛の松
文永8年(1271)、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と他宗を謗ったとして日蓮は竜のロ刑場に送られた。その途次、血で汚すまいとしてここの松の枝に袈裟を掛けたという。
江ノ電が家の軒先を優雅に走り去る。
当初の計画では、今よりも海岸沿いを走る予定だったのだが、当時の人力車組合の反対を受け住宅地を走り抜けることになった、とガイドは説明していた。

◇極楽寺
【山号寺号】霊鷲山感応院極楽寺(リョウジュザン カンノウイン ゴクラクジ)
【宗派】真言律宗 【創建】正元元年(1259) 【開山】忍性 【開基】北条重時  【本尊】釈迦如来
正喜年間(1257~59)一人の老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、極楽寺と称した。 1259年北条重時が現在の場所に再建したと伝えられる。文永4年(1267)、重時の子で6代執権長時が忍性を招いて開山とした。忍性はここに施薬・悲田・施益・福田の四院を設け福祉事業と土木事業に取り組み、極楽寺の切通を開削した。
”極楽寺坂越え行けば長谷観音の牢近く露座の大仏おわします”と歌われている「極楽寺坂」(写真下)。

◇成就院
【山号寺号】普明山法立寺成就院(フミョウザン ホウリュウジ ジョウジュイン)
【宗派】真言宗  【創建】承久元年(1219)
【開山】伝 弘法大師 【開基】北条泰時
【本尊】不動明王
弘法大師が諸国巡礼の折、100日にわたって、虚空蔵菩薩をまつる修法を行っていた所と伝えられている。その後1219年、3代執権北条泰時が京都より増辰斎を招きこの寺を創建した。元弘3年(1333)の戦火により寺は焼け落ちたが、江戸時代に再建された。

◇御霊神社
【創建】平安時代後期     【祭神】鎌倉権五郎景政
「権五郎神社」という俗称は祭神鎌倉権五郎景政に由来する。
後3年の役(1083~87)の戦いで、景政はその活躍と武勇魂を後世に伝えた人物である。藤沢や鎌倉地域に勢力を広げた鎌倉・大庭・梶原・長尾・村岡等部族の代表となった。
景政は開発した荘園を伊勢神宮に寄進して「伊勢御厨」とした。
祭礼は鎌倉景政の命日である9月18日と定められている。この日は「福禄寿」、「爺」、「鬼」、「おかめ」などの十面の面掛衆が行進する。
境内に国木田独歩が明治35年2月から4月まで住まいしていた。独歩はその前年に「武蔵野」を発表したがその冒頭に小手指ヶ原の戦いを書いている。
なお、明治8年(1895)に九代目市川団十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内暫』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められている。ただし実在の鎌倉景政からはその名を借りるのみであることは言うまでもない。
御霊神社の鳥居の前を江ノ電が通る。

◇大仏(高徳院)
【山号寺号】大異山高徳院清浄泉寺(ダイイザン コウトクイン ショウジョウセンジ)
【宗派】浄土宗 【創建】暦仁元年(1238)【本尊】銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
「大仏旨趣」によれば八幡大菩薩の本地の阿弥陀仏を、浄光という憎が資金を集めて造ったという。奈良の大仏が勅命により国を挙げて造られたのに対して、鎌倉大仏は民衆の浄財を集めて完成に至ったといわれる。
最初の像は木造だったが、建長4年(1252)に現在の青銅像が鋳造された。当初は大仏殿があったが、二度の大風で倒れ、復興された大仏殿も明応4年(1495)に地震による津波に流されたという。それ以来、露座の大仏として現在に至っている。 像の高さは11.39メートル。重量は121トン。
大正12年の関東大震災にも倒れることはなかった。浄光の出自、像体、木造大仏の存在北条氏の関与等、謎の多い国宝大仏で興味がつきない。  2010年11月にはオバマアメリカ大統領も参拝して「アミダブッダ」と正確な表現 をし子供の時来た事を回顧し、抹茶アイスを楽しんだ。

★各部略説
○螺髪(らほつ)
仏像の丸まった髪の毛のこと。
螺髪の「螺」は巻貝のことで、仏像によってその数は異なる(鎌倉大仏は656)。知恵の象徴で、すべて右巻きになっている。仏像では如来像だけに見られる。
○白毫(びゃくごう)
仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられている。眉間の白毫(右巻きの白い毛のかたまり)もそのひとつで、ここからは人々を照らす光が発せられるといわれている。
○真青眼相(しんしょうげんそう)
紺青色とされる目も仏の「三十二相」のひとつとされる。瞼の下から垣間見ると、大仏像の目は伏し目をなすよう顔面とほぼ垂直に刻まれていることが分かる。
ボランティアガイドが云うには、大仏をお参りするときは、大仏の眼の見える位置まで近寄って参拝するのが正しいお参りの仕方だそうだ。
○口
穏やかに結ばれた口元に大仏像の慈愛を感じ取られる。彼のLafcadio Hearn(小泉八雲)氏も、その口元にたたえられた笑みを「東洋的微笑」と賞賛されたそうだ。唇を縁取る髭はギリシャの彫像のそれをも連想させる。
○手
阿弥陀如来の印相(いんそう 手の形、組み方)は、親指と小指を除く三指のいずれかを合わせ、両手に輪をつくる点に特徴づけられる。親指を人差し指の上に乗せない組み方こそやや特殊といえるが、大仏像は9種類あるとされる阿弥陀仏の印相の中でも最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」を結んでいる。また、指の間には「三十二相」のひとつである縵網相(まんもうそう 鳥の水掻きのようなもの)も表現されている。
○胎内
胎内に入ると、大仏像が高度な技法を駆使して鋳造されたことに改めて気づかされる。内壁に見られる大きな格子模様からは、大仏像が約40回にも分けて鋳上げられた様子も窺える。また分割・鋳造されたパーツのつなぎ目に、部位に応じ3種の「鋳繰り(いからくり)」が使い分けられていることも確認できる。
鎌倉大仏(関東唯一の国宝彫刻)の謎
1.造立推進者と目的(開山、開基不詳)が吾妻鏡に明確に書かれていない。
(鎌倉幕府の関与が表面にでないのは何故か!)
①頼朝と稲多局:寺伝では頼朝の意思をついで稲多局が発願したと伝わる。
②念仏僧浄光
吾妻鏡に嘉禎4年(1238)3月23日、大仏事始めなり。僧浄光が勧進す。
吾妻鏡に寛元年(1243)6月16日、8丈の大仏を安んじ供養した。
吾妻鏡に建長4年(1252)8月17日、僧浄光深沢の里で金銅8丈の釈迦如来像を鋳始める。そしてこの記事が銅造大仏について直接、書かれた吾妻鏡の最後の記事である。この釈迦如来と書いたのは阿弥陀如来の間違いかと見られているが・・・・?
大仏旨趣(鎌倉後期に作られて金沢文庫で最近見つかった、作者不詳)によれば「大仏の造立を発願した人物は勧進上人(浄光)で、八幡の社壇において夢告で八幡大菩薩をみたので東土利益の本尊として阿弥陀仏を8丈で作るとされている。
鎌倉大仏縁起(江戸時代養国上人が享保20年(1735)に書かれたもの)によれば奈良の大仏から説き始め上記全部を踏まえて書いている。そして開眼供養は康元元年(1256)に25坊の供僧がしたと書かれている。また当地は東の惣国分寺であると言っている。
2.木造が完成してから9年後に金銅大仏が出来ているが何故造り替えたか!
3.鋳物師は誰か! 
寺の伝承では大野五郎衛門、しかし新大仏寺の大工として丹治久友の名が他の寺の梵鐘に書かれている。
4.どうやって作ったか。 鋳繰り(いからくり)技法、木型?、宋銭?、鍍金?。
5.当初、寺の名はなかったのか。
深沢の大仏堂、新大仏、大仏殿。いまの高徳院清浄泉寺は顕誉祐天(増上寺の僧)と弟子の養国上人が正徳2年(1712)に建てた寺の名。野島新左衛門泰祐(戒名 高徳院)よるもの。
6.完成時期が不明
大仏が完成したのは文永元年(1264)頃と見られている。しかし開眼供養は康元元年(1256)に25坊の供僧がしたと縁起書にかかれているが4年では無理。
7.運慶の特徴と宋の影響を持つ像である。
慶派の特徴: 鉢の張り、衣文のうねり、はりがあり強くてうねりかある。
宋の影響: 肉髪が低い、猫背、顔が異国的

与謝野晶子の歌碑
晶子が明治37年(1904)に鎌倉を訪れた折に詠んだ和歌の碑が大仏の裏側の観月堂の傍らにある。
○かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな
    与謝野晶子(1878~1942年) 歌碑建立:1952年

ことし、段葛の改修工事が終わったというので見に行くことにした。
◇段葛
鎌倉時代は作道と呼ばれていた。源頼朝などの武将が鎌倉に住むにつれて山を削り、少ない平地を増やして屋敷地を造成した。そのために山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に土砂や水が流れ込み、道がぬかるんで歩き辛くなったために、道から一段高い道を建設したのが段葛である。また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐために、二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるようになっており、遠近法によって、実際の距離より長く見えるようになっている。
なお、過去は一の鳥居からの参道であったが、横須賀線の建設により、一の鳥居から二の鳥居の間が撤去された。
桜の木が左右に多く植えられており、春になると桜の名所として沢山の花見客が訪れる。また、人力車に乗ると風を浴びながら花を見ることもできる。
2014年10月より改修工事が行われ、2016年3月に完成

【参照:鎌倉ガイド協会作成資料および高徳院ホームページほか】