江戸川流域・流山を歩く

1. 月 日          平成28年10月15日(土)
2. 集合場所   午前9時 所沢2階改札内
3. 行 程
所沢駅発(9:11)→武蔵野線新秋津駅発(9:22)→新松戸駅着(10:11)→流山電鉄幸谷駅10:21)→
平和台駅着(10:28)
平和台駅→流山糧秣廠跡→赤城神社→光明院→一茶双樹記念館→流山本町まちなかミュージアム→庚申塔→閻魔堂→近藤勇陣屋跡→常与寺→浅間神社→矢河原の渡し跡(昼食)→(市立博物館)→流山駅(解散14:00頃)歩行距離約3km
◎費用 交通費(所沢駅⇔平和台駅 往復2,052円)
「NPO法人流山史跡ガイドの会」による案内と解説。
【流山市観光協会資料より】
1.流山の歴史
1)江戸時代

~家康の命により江戸川の大改修が行なわれる~
流山一帯は、一部を除いてそのほとんどが天領と旗本領の入会地でした。
家康は、関東地方の治水や新田開発に力をいれましたが、特に流山に関連あるものとしては、江戸川の改修があげられます。江戸川は当時渡良瀬川の下流部分を指し、太日河と呼ばれていました。この太日河は、かなり曲がりくねっていたため、まっすぐに大改修され江戸川となったのです。
この改修により、流山西部の湿地帯は排水が良くなり、新しい水田の開発が進められ、あちこちに集落ができていきました。
また、江戸川には銚子から利根川にいたる船の航路が開設され、流山は絶好の集散地となって商家が並び栄えました。
一方、台地部の流山市域は、馬を育てる牧場の「小金牧」に属しており、現在も流山市内の地名となっている「駒木」「古間木」は、「古牧」から変化したものといわれています。牧の周囲には馬が逃げて民家や畑を荒らすのを防ぐための野馬除土手が設けられていました。現在でも、数こそ少なくなりましたが、松ケ丘、十太夫、上新宿にその跡が見ることができます。
今でも流山の特産として知られるみりんの醸造は、江戸中期に始められました。明和3年(西暦1766年)に堀切紋次郎が、続いて天明2年(西暦1782年)には5代目秋元三左衛門が、みりんの醸造を開始。天保年間になると醸造家は9軒に増え、文化11年(西暦1814年)に販売が始まったとされる流山の白みりんは関東一円にその名を轟かせました。また、この5代目秋元三左衛門は俳人でもあり、俳号は「双樹」といいました。双樹は、信州柏原(現長野県信濃町)生まれで江戸に出ていた小林一茶と深い親交を持ちました。一茶は、40才台の9年間を双樹宅を拠点の一つとして俳諧活動を行ないました。流山市が長野県信濃町と姉妹都市となった由縁です。
江戸末期には、京都で名を馳せた新選組局長の近藤勇が最後の陣を流山に敷いたことが歴史に大きく刻まれています。鳥羽・伏見の戦いで惨敗、再起を図って甲陽鎮撫隊として甲州勝沼で戦いましたが、これにも敗れ流山に逃れてきたのです。しかし、流山に陣を敷いてまもなく官軍に包囲されてしまい、近藤は自首し捕らえられ板橋にて斬首されました。結果的に流山を戦火から救ったと、地元の人々には語り継がれています。
2)明治時代
~水運から陸運へ~
元号が明治へと改まった翌年(西暦1869年)の正月13日には、葛飾県庁が流山の現在の博物館・図書館の場所に置かれました。その後の廃藩置県によって葛飾県は印旛県に統合され、県庁も市川市に置かれましたが、翌明治5年(西暦1872年)には流山に再び移され、行政の中心地となりました。しかし、翌明治6年(西暦1873年)に、印旛県と木更津県が合併し千葉県となり、県庁も現在の千葉市に置かれました。
江戸時代から船運の活発だった江戸川も、明治に入って船が大型化し、さらに利根川に中州ができたことなどから問題が発生、利根川と江戸川を結ぶ運河の必要性が訴えられました。明治18年(西暦1885年)、政府の招きで各地の土木工事に携わっていたオランダ人技師ムルデルが、「利根運河計画書」を策定し、政府に提出。明治21年(西暦1888年)に利根運河会社によって工事が開始され、2年後の5月に完成しました。完成した翌年には運河の通行は3万7,600隻余にも達しました。
また、明治44年(西暦1911年)には野田・柏間に県営の軽便鉄道が開通、駅は柏、豊四季、初石、運河、梅郷、野田の6駅がつくられました。この後、鉄道の重要性を認識し始めた流山の人々は、鉄道の設置に向けて立ち上がることとなります。
3)大正から昭和時代
~3か町村合併~
流山軽便鉄道株式会社は、大正2年(西暦1913年)11月に創立されました。資本金7万円、株主数116人の「住民による鉄道」の歴史がここに始まりました。工事は翌大正3年(西暦1914年)に着手、約2か年をかけて完成しました。全線5.8キロ、駅は流山、鰭ケ崎、大谷口、馬橋の4駅でした。
一方、陸上交通の発達と関東大震災による船舶の被災で、船運は衰退の一途をたどり利根運河を行き来する船もほとんど見られなくなり、利根運河会社も昭和17年(西暦1942年)に解散となりました。
戦後の昭和26年(西暦1951年)には、旧流山町と旧新川村、旧八木村の3か町村が合併し「江戸川町」を名のりました。これにより現在の流山市域が一つになりました。江戸川町は、東京の江戸川区と間違われやすいとの理由で、わずか9か月で「流山町」に改められました。
昭和28年(西暦1953年)の常磐線南柏駅、昭和33年(西暦1958年)の東武野田線江戸川台駅の開設に合わせ、松ケ丘団地、江戸川台団地が誕生し、人口増加の引き金となりました。県道松戸・野田線の開通、新流山橋の完成など道路網も整備され、現在の発展の礎が築かれていきました。
急速に進んだ住宅化により、合併時には1万8千人だった人口は昭和42年(西暦1967年)1月1日には4万2,649人に増加。この日に、千葉県下20番目の市として流山市が産声をあげました。

朝から雲一つない穏やかな陽射しの中歩いた。参加者は14名。主な散策コースは以下の通り。
◆流山糧秣廠跡(ナガレヤマ リョウマツショウ アト)
大正14年から昭和20年(1925~1945)に陸軍馬糧倉庫がありました。敷地35,260坪、建物7,597坪。業務は軍馬用の大麦等の貯蔵や干し草の加工。正式名は陸軍糧秣本廠流山出張所。
現在は、跡地に千草稲荷が祀られています。
◆赤城神社
市内を流れる江戸川の左岸(東岸)、平坦な土地に盛り上がった海抜約15メートル、周囲350メートル余りの小山の上に鎮座しています。この小山はかつての洪水の際、群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきてここに流れ着いたものという伝承があります。一説に赤城神社のお札が流れつき里人たちが祀ったのが当社の始まりともされています。
これに基づき当社は群馬県の赤城山にある赤城神社の末社であり、流山という地名もこれに由来すると言われます。鎌倉時代の創建ともいわれています。
写真下のしめ縄は700㎏(市の情報によると500㎏)だそうです。
きょうは当神社のお祭りだったので、通常は見れない神殿を見ることができました。(写真下)
光明院
光明院の創建は不詳です。本尊は不動尊。江戸時代(1603年~)の石造物のある真言宗豊山派の寺院です。明治初期(1868年)までは赤城神社の別当祈願所でした。赤城山神楽寺が寺号です。境内には、寛文6年(1666年)に立像の、庚申塔や享保7年(1722年)建立の六地蔵があります。また、秋元家の五代目で、味醂醸造創業者の秋元三左衛門(葛飾派の俳人で号は双樹)の墓があり、昭和53年(1978)に高さ2mの双樹と一茶の連句碑が作られました。
一茶双樹記念館
みりん開発者の一人とされる五代目秋元三左衛門(1757~1812年)は、本業の一方、双樹と号して俳句をたしなみ、小林一茶(1763~1827)と深い親交を持ちました。一茶は流山の双樹のもとを生涯50回以上も訪れていました。その記念として、安政年間の母屋を修理し、往時を偲ばせる主庭や商家を再現した記念館が平成7年4月に設立されました。
外観
双樹亭なかの間からおくの間を望む
枯れ池
◆流山本町まちなかミュージアム
2014年に、流山市の特産品である万上の「白みりん」が誕生して200周年を迎えました。
この記念すべき年を契機に、流山の白みりん2大ブランドの一つ、「万上」の味が受け継がれる、流山キッコーマン株式会社の壁面に白みりんに関する歴史的な資料を掲示する「流山本町まちなかミュージアム」を設置しました。
このミュージアムでは、現存する流山最古のみりんラベルや、流山のみりん醸造をけん引した秋元家の「天晴」と堀切家の「万上」のポスター等、貴重な資料が展示されています。
◆庚申塔
庚申塔や庚申講については、敢てここでは説明はしませんが、流山3丁目自治会では、毎年初庚申の日には、飾りつけ、お供えをして、無病息災・五穀豊穣を祈願してお祭りを続けているそうです。
◆近藤勇陣屋跡
幕末、幕府軍とともに戦った新選組は、慶応4年(1868年)4月1日夜、総勢200余名で流山へ移動しました。流山では、醸造家長岡屋を本陣として、光明院、流山寺などに分宿していましたが、4月3日情報を得た西軍の先鋒隊に包囲されてしまいます。近藤勇は、大久保大和と名乗り出頭し、幕府公認の治安隊であると主張したが、板橋へ連行されることとなります。その後、新選組の近藤勇であることが露見し、4月25日に板橋にて処刑されました。この地は、近藤勇と土方歳三の最後の別れの地となったのです。
◆閻魔堂
本尊は閻魔大王で、堂内に坐像が安置されています。閻魔大王は地獄で死人の生前の罪状を暴き、様々な責め苦に合わせる大王と言われています。また、講談や歌舞伎の狂言で書き下ろした天保六花撰の義賊と言われる金子市之丞の墓があります。(写真上左)
写真上右は金子市之丞の紙芝居を披露するボランティア・ガイドさん。
◆常与寺
鎌倉時代創建の日蓮宗寺院。明治5年に県内最初の流山学校(現流山小学校)と教員養成の「印旛官員共立学舎(現千葉大学)」が設置されました。敷地内には千葉師範学校発祥の地の碑があります。
◆浅間神社(富士塚)
日本人は大昔から神々しい富士山を神様と崇め、頂上は富士浅間大神が鎮座する極楽浄土と信じ、富士山を畏れ敬い遥拝してきました。
浅間神社は江戸川の工事が完了した江戸時代初め、人々が集まり街並みが揃いはじめた頃、富士信仰のため根郷の鎮守様として正保元年(1644)に創建されたと伝えられています。
祭神は富士浅間大神の化身である木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)です。夫はニニギノ命。
神社の裏には壮大で美しい富士塚があります。
◆矢河原(やっかわら)の渡し跡
江戸川とともに栄えた商都流山は、江戸時代から明治時代にかけて、通商の中心地でした。その商圏は茨城や、埼玉をも含み往来は終日大変な賑わいでした。
茨城方面からの街道は、諏訪道(今の柏流山線)と、野田街道で諏訪道の途中には諏訪神社があり、出店が建ち並ぶ絶好の休憩ポイントでした。そして、埼玉方面に向かう人々は江戸川を渡らなければならないために渡し舟を利用したのでした。当時の江戸川には8箇所もの渡し舟が存在しましたが陸路が主流となった現代では、渡し舟を利用する人もいなくなりその姿を見ることは出来なくなりました。ここは加村の渡しとも呼ばれ、昭和35年頃まで江戸川の両岸を結んでいました。
幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にしました。
◆流山市立博物館
新撰組が占拠を計画した駿河国田中藩本多家屋敷跡に昭和53年に造られました。明治2~6年(1869~73)に葛飾県庁、印旛県庁がおかれたところです。
担当:3班