所沢市荒幡地区の年中行事


ことし、8月に計画していた門内政広氏の講座が、氏の都合で延期になっていたが、本日午後1時30分から小手指公民館分館で実施された。
出席者は16名。
この資料は氏が荒幡地区の老人から聞き取り調査したものを講義用資料としてまとめたのもである。

1月
☆1日(元旦)
年男(家長)が3日間、神棚に関することを行った。家によっては年男が7日間、神棚に関することを行った。
☆4日。「三・八市(さん・ぱち・いちの初市)」
正月は、3日が休みなので、初市は4日に行われた。初市は、いつもより人出がすごかった。
当時は「三・八市」 ですべて買い物を行った。道路の両脇に店が並んですごい賑わいであった。
市の時に「だんご屋」が、たくさん出た。当時は、今のように広告などがなかったので、ロこみで人が集まった。
☆7日・七草(七草粥)
☆11日・蔵開き(鏡開き)
3日あるいは7日までお供えしていた歳神(としがみ)様へのお供え物を、この目に初めて食べた(お供え物をとっておいて、11則こ家族みんなで食べた)。
☆14日・まゆ玉飾り
コナラの木(細いもの)を切り、その枝先にだんごを飾る。「コゴメ」と呼ばれる食料に向かない米を使った。一度、石臼で挽いてふるった後、粉になりきらないものをもう一度挽いた。
まゆ玉作りは、子供も手伝い、家族で行った。まゆ玉飾りの土台には、石臼を使った。まゆ玉を作るために米を挽くので、石臼をきれいにしてから飾りに使った。
飾りのミカンについては、彩りなどの意味と、時期的に成りものは、ミカンしかなかった。ミカンはめったに食べられなかったため、16日の「マユカキ」は、子供にとって楽しみな行事であった。
まゆ玉飾りは、床の間の前にある畳の間にゴザを敷き石臼を置いて飾った。
「十六まゆ玉」は、普通のまゆ玉よりも大きめに作り、16個さして飾った。形は繭、里芋、俵などの形にすること、木は桑を使うことなどが決まっていた。
14日に飾りつけ、15日は1日飾っておいて、16日の朝にもいで(マユカキ)、お汁粉、みそ汁、小豆粥の中に入れて食べたり、囲炉裏の灰の中に入れて焼いて食べたりした。
囲炉裏の灰でじっくり焼いて食べるのがおいしかった。
また、固くなったものは、みそ汁に入れて食べたり、女正月で女性どうじが集まっ九時などは、お汁粉にして食べたりした。
「まゆ玉飾り」の日は、「オシラ講」といって、女性のための「お日待ち」が行われた(オンナビマチともいう)。普段から出かけることは少なかったので、この日は新しく来たお嫁さんを紹介したり、されたりするなど、女性が集まり食事をしながら話しをした。
・「十六まゆ玉」の16の数字については諸説ある。岩手県や青森県の五戸地方、新潟県の一部などで、春や秋の農神(のうがみ)の祭にお供えする団子が「十六団子(じゆうろくだんご)」と呼ばれている。
これは、春の3月16日には農神が山から降りてきて、秋の11月16日には山へ帰るという伝承からきている。農神を祀る日が16日だから、16個の団子をお供えする。
・東北地方では、蚕の神様のことを「オシラ神」あるいは「オシラサマ」と呼んで寺や神社に祀っている。東北地方では、笹神に関して古くから伝承がある。
その伝承とは、ある長者の家の名馬が長者の娘に恋をして、娘の与える餌以外は食べなくなってしまった。これに怒った長者がこの馬を殺し、皮を剥いで、その皮をたまたま3月16日に河原に干しておいた。そこへ供養に行った娘の体を馬の皮が巻き込んで天に舞い上がり消えてしまった。一年後の同じ3月16日に、天から白い虫と黒い虫が降ってきて、桑の枝につき、桑の葉を食べ、糸をはいた。
これが蚕のもとであり、白い虫が娘、黒い虫は馬に似ていたので、これをオシラ神として祀り、蚕の守護神としたとのことである。
娘と馬が神として祀られる背景には、関東地方から東北地方南部にかけて、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)を蚕の守護仏とする習俗かおることが考えられる。
馬鳴菩薩は養蚕や機織の神として祀られ、その像は、菩薩が馬上に座す姿で表現される。馬上の菩薩は養蚕や機織に因んだ物を持っている。
☆14日・生木(なりき)ぜめ
「まゆ玉飾り」のだんごを作った時の釜の湯を実の成る本にかけ、本を叩いて豊作を願った。
「ナルカナラナイカ ナラナイト ナタデタタッキルソ」という、まじないのような言葉を唱えながら、柿の本などを棒で叩いた。
ちなみに、荒幡周辺では柿が良く成ったが、勝光寺で朝・晩ついていた鐘が聞こえる範囲は、柿が良く成るといわれていた。
☆20日・恵比寿講(えびすこう)
恵比寿・大黒を棚から下ろし、朝は赤飯を高盛り(てんこ盛り)にして、けんちん汁と尾頭つきの魚(サンマ・ニシンが多く、サバはまれ)を二人前ずつ供えた。さらに、小銭を桝の中に入れてお供えをした(ますます儲かるようにとの、語呂合わせ)。
また、聖護院ダイコンや聖護院カブを供えた。カブぱ大株主”とかけた(これも、語呂合わせだろう)。昼はうどんを供えた。お供えした魚が猫にとられて天変だった。
2月
☆1日・次郎の朔日(じろうのついたち)
月遅れの正月。 2月は雪がふるので、ヤマ仕事をそれまでに終える必要かおり、農家は1月にやることがたくさんあった。そのため、2月に正月のほうが都合の良いことが多く、富岡あたりでは、2月に正月を行った。
荒幡では、仕事のつきあいから2月正月を行っている地区に合わせて、1日だけ休みをとった。
☆3日・節分(豆まき)
「としとり」ともいわれ、冬の終わりをつげる行事。イワシの頭を焼き、大豆の枯れた茎DJIがら)にさして、ヒイラギの枝とともに戸ロにたてた。
イワシの頭を焼く時に「粟の虫ジリジリ、米の虫ジリジリ」と唱え、ツバを三度かけた。
☆初午・(稲荷講:いなりこう)
屋敷神(稲荷様)に赤飯、メザシ、油揚げをお供えした。屋敷神は、住んでいる屋敷より1段高い所に祀った。子供は、親から旗に「稲荷大明神」と書くようにいわれて、その旗を屋敬神のところに立てた。
3月
☆3日一桃の節句(ひな祭り)
荒幡では、「久米の水天宮」のお祭りにかこつけて、4・5日に行った。 5日の久米水天宮は着飾った花嫁さんの参拝客で賑わった。
☆21日一天神様(てんじんさま)
北野天神に幡をもって、みんながお参りに行った。お彼岸の間は、天神様の賑わいはすごかった。
4月
☆3日・浅間(あさま)神社の春のお祭り
餅草を摘むには早い季節だが、家によっては草餅を作って、お供えする家もあった。氏子は神社からお札をもらった。
☆8日・花まつり
昔は本覚院の花見堂で、甘茶をかけて、お祭りをした。現在は行われていない。
5月
☆5日・端午(たんご)の節句
柏餅を作るが、この時にはまだ柏の葉はとれないので、1年前の葉を使った。柏の木がない家もあったため、「三・八市」の時に柏の葉だけを売る市がたった。
6月
☆5日・食い節句(<いぜっく)
新しい柏の葉が出来るので、柏餅を作って食べた(仕事を休めるわけではなく、「かわりもの(ごちそう)」として柏餅を食べた)。
・6月、7月は農家が忙しい時期で、休む暇がなかった。
7月
☆1日・山開き(荒幡富士)
山開きの日までに終わらせておかなければいけない仕事があった。
昔からのいい伝えで、山開きの時に供える「ゆでまんじゅう」と「うどん」はその年の新しい小麦の粉で作らなければならなかった。そのため、何としてもやらなければならなかった。お供え物は、特に荒幡富士に行って供えるのではなく、各家でお供えをした。 7月1日は農作業の一つの目安だった。
☆15日一天王様(てんのうさま)
疫病が流行しないよう、作物が豊作になるよう祈る祭り。天王様(牛頭天王・ごずてんのう)が貼ってある灯明を立てた。天王様は疫病除けの神様でもあった。この日を過ざるまでは、キュウリを縦に割ってば(切ってば)いけないといわれた。
キュウリを輪切りにした時の断面の模様が、天王様の紋に似ているので、お祭りが過ぎるまではキュウリを縦に切ってはいけなかった。
川の河童は、天王様のお使いであるといわれていたことからも、キュウリの巻きものを「カッパ巻き」と呼ぶよ引・こなったといわれている。
8月
☆1日・お盆
ご先祖様を迎えに行く時は、お墓まで行って、そこで麦わらのたいまつに火をつけて家まで迎え、お線香は家であげた。麦わらで作った、たいまつは、太いほど自慢になった。お寺まで違い家は、たいまつではなく、提灯で迎えに行った。
ご先祖様を送る時は、お線香の火で送り、ナスで馬の形を作り、おみやげのうどんをナスの背にのせ、お寺の門の前に置いた。このうどんは、おみやげの荷物をつんだ荷綱のかわり。お寺の奥まで送っていくと帰らないで、ついてきてしまうといけないので、お寺の入口まで送った。できるだけ、ご先祖様が家に長くいられるように、遅くなってから送っていった。そして、次の日の朝に、改めてお線香とお花をもって、お墓に行きお参りした。山口、荒幡、久米地区では8月1日にお盆を行った。
☆7日・七夕(たなぱた)
かつて、下が7月7日に上が7月24日にそれぞれ「七夕」を行っていた。同じ地区内で統一されていなかったので、8月7剛こ統一した。
荒幡での「七夕かざり」は、素朴で竹に短冊をつけて家で飾った。飾る竹は、その年に出た竹を切ってくる決まりだった。竹は2~3メートルの細いものを使った。
短冊は、村の雑貨屋さんに“七夕の紙”として、だいたい10枚つづりで売っていた。
荒幡では内野商店、山口では山口中学校の入口のあたりに酒や米を扱う店があり、そこで紙を置いていたので、買いに行った。
7日の朝、里芋の葉っぱの露を集めてくる。その露を使って、すずりで墨をすり筆で字を書く。書き終ったら竹に結わえる。結わえるために紙嵯り(こより)を作った。
短冊には「習字が上手になりますように」「頭が良くなりますように」といったお願い事のほか、「星まつり」「七夕まつり」「天の川」「お星様」などの文字を書いた。
特に、七夕様に字が上手くなるようにお願いするいわれがあった。短冊やお願い事は、一人でたくさん書いた。七夕の朝か、前日に書いた。
また、七夕のことを、「願いの糸」などと呼んだ。厳密に言えば短冊のことをさすようだが、小説や俳句などで、お洒落な言葉として使われていた。
「七夕かざり」を飾る場所は、庭の真ん中。杭を打って、その杭に竹を縛り付けるのが一般的だった。その日一日は飾っておき、夕方には外して川に流しに行く。主に子どもが外してかついで、橋の上から川に放り投げた。いろんな家の子どもが誘いながら集まって、捨てに行った。このあたりでは、柳瀬川に流した。
荒幡では、「ゆでまんじゆう」や「うどん」を七夕様にお供えした。特別これを供えなければいけないという決まりはなかった。「七夕」は仕事を休んでご馳走を食べるという意味合いをもつ行事の一つでもあった。
供え物は、「七夕かざり」の前に本の箱を置き、お盆にのせて供えた。雨などの日は家の中に供えた。
8月7日は、狭山市の入間川の「七夕」でもあった。この辺りでは有名で、また夏休みで学校が休みということもあり見に行った。
「七夕」と一緒に、客寄せとして入間川のほとりで、打ち上げ花火が上がった。当時花火は珍しいものだった。
9月
☆1日・八朔(はっさく)の節句
台風や嵐よけの意味をこめて「かわりもの(、ごちそう)」を作り、神様にお供えをした。
荒幡ではないが、川越などの水田耕作が主体の地域では、9月1日にお嫁さんが実家に帰る「しょうがの節句」を行った。
たくさんの赤飯といっしょに、新しょうがを持って、お嫁さんが実家に帰る(嫁ぎ先が「しょうがない嫁」という意味をもたせている)。
お嫁さんが嫁ぎ先に戻る時に、実家では箕を持たせた(実家では「そんなことないので、み直してください」の意味をもたせている)。
このような風習があったことから、お嫁に出した家々をまわって、箕を売る業者があり、商売として成り立った。
☆15日・十五夜(じゆうごや)
十五夜は「十五夜様(じゅうごやさま)」と呼び、十三夜は単に「十三夜(じゅうさんや)」で、特に「様(さま)」をつけなかった。
十五夜のことを芋名月、十三夜のことを栗名月、豆名月と呼んだりするが、荒幡では呼ばなかった。
十五夜を行う目にちは、満月に関係なく行った。外から来た人は、月にあわせてやる人もいる。
月にあわせて行うわけではないので、天気の状態によっては、お月様が見られない時もある。雨が降ったりしても、決まった日にやった。
お供えするス・スキの数は5本。他に柿、栗、サツマイモ、サトイモ、団子をお供えした。十五夜には「団子」を供えることが多いが、月のような丸いものであれば構わないということで、「ゆでまんじゅう」や「ふかしまんじゆう」を作り、お供えする家もあった。団子の数は15個、まんじゅうなどの大きいものなら5イ固。団子と、まんじゅうの両方をお供えする家もあった。お供えする物の数は5がつくようにした。
子供は、十五夜のお供え物を盗んでもらっていっても良かったので、丁寧な家は、お供え物と子供が取りに来る用と別に置いていた家もあった。お供え物を盗みに来る時の決まり文句などはなく、「もらうよー」などといってもらっていった。
ススキ以外にお供えした花で、オミナエシ、フジバカマ、ナデシコ、クズ、ワレモコウは、その辺りから採ってきた。クズの花を見だのは最近になってからで、昔は、冬の落ち葉かきの時に邪魔になるので、夏の間に切ってしまった。クズは、マメ科なので家畜(ヤギや乳牛)の餌に良かった。
フジバカマのことは何と呼んでいたかわからないが、ワレモコウは、「ボウズ」あるいは「ボウズッパナ」と呼んでいた。名前を知っていたのは、オミナエシとナデシコくらいで、他の花は名前も知らないものがほとんどだった。
お供え物は、昔から必ず箕にあげた。「箕入り(みいり:収入)があるように」という語呂合わせもある。
なお、箕に関していえば、家でお産をする時に、お産婆さんが取りあげて赤ちゃんを箕にのせたりもした。(ベッド代わりか?)
お供え物の下げ方については、お供え物はその日のうちに食べてしまう。上げる時は雨戸を開けておくが、2、3時間かっと、そろそろいいか、ということで食べたりする。ススキは捨ててしまう。
十五夜の時は、忙しい合間の休みや息抜きというわけではなく、仕事も通常通り行った。食事は普段と変らないが、「加わりもの」をということで、当時、ご馳走といえば甘いもの。団子やまんじゅう(ゆでまんじゅう)を食べて一息つこうか、というくらいの意味で、特に五穀豊穣などといった意味もなかった。
お月様を眺めて、お月見するという風流なことはしなかったが、「お月様には感謝しましょう」という昔からの慣わしで家族全員でそろって十五夜を行った。
十五夜と十三夜は両方やらないと「片月見(かたつきみ)」といって、良くないといわれたことから、十五夜は家にいるが、十三夜の時には用事でいないという人のためにお供え物を取っておいて、後でそれを食べれば、一緒にお月見をしたことになるといわれた。
・十五夜の頃は、晩秋蚕で蚕も忙しくはなかった。夕方の気温も下がり冷えるため、蚕の食欲がなくなり、晩秋蚕は難しかった。
10月
☆13日・十三夜(じゅうさんや)
十三夜を「あとのつき」とも呼ぶ。お供え物は、団子13個、ススキ3本。十三夜では、お供え物の数は3がつくようにした。なお、十五夜の時と同様に団子やまんじゅうで丸いものであれば構わない。花も大体同じ。後は、その時期にあるものを供えた。
・10月19日に山口観音で念仏を唱えながらこもる「お十夜(オジュウヤ)」が行われるが、その頃に柿のゼンジマルは食べ頃となる。昔は、「十夜講(じゅうやこう)」を行った地域もあった。
・「ゼンジマル」は、元は山梨(甲府)の柿だが、殿様(柳沢言保)が山梨から川越に移って きた時に持ってきたといわれる。「ゼンジマル」は柳瀬川のそばに植わっていた。
☆31日・オカマサマ
「おかまのだんご」、台所に祀ってある「おかまの神様(三宝荒神:さんぽうこうじん)」に米のだんごを供える。この時、36個のだんごを供えた。
トウミであおって2番出口から出たものを「だんご米」として、とっておいて「まゆ玉」や「おかまさま」に使った。
子供の時に石臼ひきを手伝わされて、子供では2~3人がかりでないと臼がひけないため、天変だった。早く終わらせようとして、一度にたくさんの団子米をいれると粉にならないため親に叱られた。
☆ドジョウガユ(麦まきが終った日)
“麦まき仕舞いのどじょうがゆ”といって麦まきが終った日の夜に食べた。
豆のご飯をやわらかく炊いて、ドジョウに見立てて短くした手打ちのうどんを入れる。豆はササゲ(赤飯の豆)。味つけは塩。あとは、うどんの塩気がでていたのかもしれない。これを食べるのは麦まき仕舞いの時だけ。
似たようなものは、お正月に、まゆ玉をおかゆに入れて一緒に炊き上げる。ササゲを入れる家もあれば、入れない家もあった。
11月
☆9日・イノコノボタモチ
「ぼたもち」を作る。この目は「ダイコンの年とり」ともいわれる。他の地域ではダイコンを抜いたり、ダイコン畑に入ったりしてはいけないという所もあったが、荒幡では、ダイコンにとらわれるのではなく、この時までには、麦まきを終えておく、ひとつの目安の目だった。
農作業でずっと体を使い続けているので、「加わりもの」として、甘い物を食べて体を休める意味のほうが強かった。
☆20日・恵比寿講(えぴすこう)
秋の収積祭を兼ねており、お供えするものは春の時と同じ。秋の恵比寿講はカキとユズを供える。「(商売の)金の融通が利く」という語呂合わせであろう。
秋の恵比寿講の頃には、田んぼに氷がはって、早ければ12月から雪が降っていた。
12月
☆しめなわ飾り
28日までには飾る。29日は「苦をもつ」ことから、お飾りや餅つきを行ってはいけなかった。また、31日に飾るのは一夜飾りになるので、31日に飾ることができなければ、年が明けて、1月1日に飾る方が良いとされた。
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○生活・風景
○蚕は春(5月のゴールデンウィーク~6月:6月初句に出荷)・夏(7月末、20日頃~8月末:8月末頃に出荷)・晩秋(8月最終、9月初め~10月初句:10月初句に出荷)と、1年に3回行った。
蚕はすぐに現金収入につながったので、「お蚕様」「おこ様」と呼ばれた。大きい農家は養蚕室かおるが、普通の農家は、寝るところも養蚕に使った。そのため、蚕で部屋がいっぱいになり、入の寝るところがないほどだった。

○春蚕は安定していて、収量も多く、品質も良いので単価が良かった。夏蚕は保温しなくて良く、暖かいから早く繭が出来、すぐにお金になった(親戚に頭を下げてお金を借引こ行くのなら、蚕を飼えといわれた)。蚕にあわせてお盆を行った。北野はお盆が早く(7月20日)、荒幡のお盆は8月1日。

○各家庭で味噌・醤油を作っていたので、麦の麹菌で蚕が駄目になる所もあった。

○当初は、蚕の病気の原因が麹菌であることがわからなかったが、熊谷にある産業試験場で研究が続けられ、麹菌が原因であることが発見された。

○繭になる時に保温のため、炭火を使ったので、不注意で火事になってしまう家があった。養蚕家は火事になることが多かった。春今秋の火事は大体、養蚕家だった。

○桑の畑の畝は等高線に沿ってつくると決まっていた。等高線が曲かっている所は、畝も曲がっていた。雨が降った時に、上が流れてしまうのを防ぐためであるという。

○冬は、桑の本の根元にある上をさらい、夏は逆に、根元に上をかぶせる。そうすることで、冬は根元が寒風にさらされるため害虫の退治になり、夏は根元の保護になり、干ばつに強いとされた。このことを「土用の布子の寒帷子(どようのぬのこのかんかたびら)」といっていた。

○蚕の繭1貫目で、お茶1貫目、小麦1俵(16貫)と同じ相場だった。

○麦の棒打ち(ポーチ)は、カンカン照りの時に行った。カンカン照りの時が麦のノゲがよく落ちるため、「お天道様に半分すけてもらう(助けてもらうの意味)」といわれていた。

○荒幡は麦がおいしく作れる土地で、大麦と小麦を作っていた。小麦は出来が良く、業者(製粉)が荒幡地区に買いにきた。

○落ち葉はき(くずはき)の時に、カゴ(八木・ハッポン)に落ち葉をいっぱいに入れると、だいたい60 kgになるが、それを担いでヤマを上り下りした。今の人はおそらくカゴを背負うことも無理だろう。

○小豆は、自分たちの畑で作った。畑の上が小豆には向かないせいもあり、飽をつくった時に「つぶ」がどうしても残ってしまった。

○昭和38年頃までは、荒幡でも小豆を作っていた。また、終戦後の食糧難の時期はサツマイモの畑のへりに小豆を植えていた。

○小豆は、朝早く収穫をしないと、さやの部分からはじけてしまうので、太陽が昇る前のまだ暗い時間から収穫を行った。

○細い谷戸の水路の脇に、細長く田んぼがつくられた所があり、柳瀬川の周辺にいくつもあった(土地の有効活用)。

○荒幡の谷戸田は、場所によって「ドブ田」と呼ばれる深い田んぼもあった。

○お茶摘みの時期になると、茶摘み用のカゴを売るために安松からカゴやザルを売りにきた。戦後も、おばさんが安松から自転車でカゴやザルを売りに来た。

○女の人の仕事は、畑仕事と家事があるため大変たった。 11 月のサツマイモを掘る時期は。午後4時30分頃で暗くなるので、冬など日照時開か短い時は、今よりもうんと寒く、素手での仕事だったので、厳しいものだった。洗濯も手洗いだった。

○洗濯は井戸水を使ってするので、井戸水は何回かくめば幾分はあったかくなったが、それでも冷たくて大変たった。

○仕事をしながらの子守りは天変だったので、家では柱と柱の間にハンモックをかけてその中で赤ちゃんを揺らして寝かし、その間に家事をした。昔は、大家族だったので、みんながそれぞれ仕事の役割をもって生活をしていた。

○夏場は、夕方になると、「そろそろ、蚊いぶしでもするか」といって、麦の「ノゲ」を庭で燃やし(蚊やり火)、箕を使って、その煙を家の中に入れて蚊をいぶした。

○ミカンの皮を干しておいたものを火鉢の炭であぶって、蚊よけにすることもあった。ミカンの皮は唐辛子に入れたり、お風呂に入れたりするなど、いろんなことに使い無駄なく利用した。

○農作業で、隣、近所といい意味での競争(お隣り百姓)があったが、お互いに助け合って暮らしていた。助け合って行う「結い仕事(ゆいしごと)」というものがあった。

○今のように道が整っているわけではなく、ましてや、この辺りの土は真土(まつも)なので、道が悪く、歩いているとゲクの鼻緒が切れてしまうことが多かった。
なお、夜はあたりが真っ暗で、道も暗いため、用事があってこの辺りに来ていて、迷う人がいるといけないので、青年団の先輩が道の辻に道標を立てた。そして、歩いているときに鼻緒が切れても直せるように、替えのための鼻緒をかけて置くフックを道標の柱につけてくれた。

○毎日の生活が忙しく、今のようにお金を貯めて旅行に行く余裕などなかった。 しかし、そのような中でも、何年かに1回は、お伊勢参りに行くこともあった。
また、講(こう)をつくって、代参で榛名山や大山参りがあった。荒幡地区では、かって榛名講(はるな・はんな講:群馬県)、大山講(おおやま講:神奈川県)があった。

O「雨乞い」については、荒畑地区の田端では田んぼがあったので、村の代表者が御獄山(みたけさん)に水をもらいに行ったことがある。

○今のように公民館や集会場はなく、定期的にみんなが集まるということもなかった。
その地区内で何か相談事や決める事がある場合には、お目待ちなどの講の時に集まるので、その場を利用して相談をした(田んぼの「溝さらい」などもその時に相談して決めた)。
講などで、代参に行った人がもらってきたお札を配る時に、みんなが集まるので、そのような時も相談の場として利用した。集まる家を「宿(やど)」といい、この宿は持ち回り(順番)だった。宿への集まりには家の主人が行った。

○講は一種の信仰の場でもあるが、飲食をして話しをする、楽しみの場の一つでもあった。

○冠婚葬祭の場所は、今のように葬祭揚があるわけではないので、各家で行った。ただし、膳椀組合(ぜんわんくみあい)というものかおり、冠婚葬祭に使う、お膳やお椀などの一式をそこで借りて使った。

○お盆や十五夜といった「物日(ヽモノビ)」と呼ばれる日、また、農休日や人が集まった時などに「ゆでまんじゅう」を作った。

O「ゆでまんじゅう」の他には、「さつまだんご」も食べた。「ゆでまんじゆう」のほかに、このあたりで作られていた郷土食は、団子、うどん、けんちん汁などがある。
この辺りのけんちん汁はサトイモを入れることが多い。ジャガイモやサツマイモを入れると聞いたこともある。

O「お盆」や「恵比寿講」の際に「ゆでまんじゆう」を作った。「うどん」とセットで「物日(モノビ)」には作って食べた。「ゆでまんじゆう」は女性が作った。

○現在の「西武園ゴルフ場」内に「元富士(もとふじ)」と呼ばれるところかおり、そこに「浅間(あさま)社」と富士山があった。現在の荒幡富士のある場所には、かつて「松尾社」があった。
荒幡村内の人々の心を一つにするために、村内にあった「神明社」。「木川社」。「松尾社」。「三島社」を浅間神社に合祀して、現在の場所に移した。それとともに、かつて元富士の浅間神社の境内にあった富士山も移し、新たに荒幡富士を築造した(明治17年に起工し、明治32年に完成。高さは約18mで、関東最大の人工の富士山。)。

O「光蔵寺」の前から「八国山」や「西武園駅」に向かう峠の道は、「救済道(きゅうさいどう)」と呼ばれていた(かつて、生活に困った人を救済するために、道路の工事を救済が必要な人に行ってもらったことから「救済道」という名がついた)。

○昔は、すべての道が「荒幡富士」へと通じていた。現在はゴルフ場となっているが、「荒幡富士」から「掬水亭(きくすいてい)」に抜ける道(尾根道)があった。この道は自転車でも通ることができた。ヤマには雑木林だけでなく、畑も点在していた。

O「荒幡富士」から荒幡小学校へ向かう道は、小学校がなかった頃には、ちょうど、現在の校舎の3階部分にあたる位置に尾根道が通っていた。
荒幡小学校を建設する際の発掘調査の結果、発見されたのが「畦の前遺跡」。

○ヤマ師が荒幡地区を周期的に訪れ、一定区画を伐採し、材を買い取っていった。そのため、周期的な伐採によって、生長段階が異なるパッチワーク状の雑木林が光景として見られた。

○山王橋(さんの引ざ○の近くに山玉桂があった。この橋は、他の橋に比べて水面から高いところにあったので、高橋(たかばし)と呼ばれた。この高橋を渡った突き当たり が永源寺(えいげん○。地蔵橋(じぞうばし)は、リヤカーも通れないくらい細かった。
川べりの道は農道に近いもの。

○養蚕が現金収入として一番であったことから、桑畑が営まれた。麦畑と桑畑が、この一面に広がっていた。水田耕作が中心の地域から来たお嫁さんは、最初、一面が麦畑で黄色く見え、驚いたとのこと。

○荒幡富士から競輪場がある所にかけて、松林が多かった。大谷田んぼは「ドブ田」で深く、足場を確保するためにマツを入れた。

○荒幡から久米は、柳瀬川にかけて水車をもっているところかおり、屋号はどこも「車屋」だった。久米の上の「車屋」では、水車を使って土をついていた。
水車でついていた土は、狭山丘陵の土で、この辺りでは、「真土(まつち)」と呼ばれているもの。この土は、雨が降って湿ると粘着性がついて柔らかくなり、乾燥するとひび割れて固く凝縮することから、壁材(壁土)に適していて、広く利用された。
また、この辺りで「おうつ:黄土」(台地のローム層の中に断片的に堆積している緑黄色の粘土質の土層)と呼ばれていた土も水車でついていたようである。この「おうつ:黄土」も壁材(壁土)などに用いるのに良質であった。

○荒幡ではないが、久米の鳩峰八幡神社で、9月15日に八幡様のお祭りがあった。神楽殿があって、昔はお神楽をやっていた。人がたくさん集まって、広場に笥を敷いて見た。
村芝居も来た。三芳町の芝居をやっている集団を呼んだりした。芝居がやっていたのは
戦前のことである。