黒目川の遺跡を歩く

1.月日  平成29年2月18日(土)
2.集合  9:30 所沢駅2階改札内
3.行程(予定)
所沢駅9:41⇒東久留米駅9:49
東久留米駅(西口)→(10)小山台遺跡[10]→(3)子ノ神社[5]→(3)大円寺[10]→(7)石橋供養塔と力石[3]→(20)下里本邑遺跡公園・昼食[30]→(10)氷川神社[5]→(10)新山遺跡屋外展示室[3]→(20)柳窪天神社[5]→(3)村野家[3]→(30)小平駅
解散14:00頃
 ⦅ →( )は徒歩時間、 [ ]は見学時間、 徒歩時間は約2時間分 ⦆
4.費用
  交通費  往路:所沢→東久留米 174円 
       復路:小平→所沢   174円
5.出席者: 14名
昨日の最高気温は20度近くまであったのだが、一転して今日は最高気温は11度と平年並みに戻った。加えて北西の風が吹いていた。
一昨日から燃え続けている三芳町のアクスル倉庫火災の影響があったのか、代表の大河原氏は欠席していた。
〇東久留米駅(西口)
スタート地点である。
〇黒目川
黒目川両岸は宅地開発されていたが、まだ所々に畑や雑木林が残っていた。
〇小山台遺跡
1960年代後半頃から本格的な都市化が進み雑木林や遺跡の破壊が進む中、これに憂いた久留米中学校の生徒たちの遺跡の調査と祖先の足跡を知りたいという自発的な願い、それを受け止めた教師と父母は、市民、研究者、市教育委員会の協力によって1970年7月25日から30日に小山台遺跡の発掘調査を行った。
その結果、縄文時代中期(約5千年前)の3軒の竪穴住居跡が発見された。下の写真はそのうちの1軒を復元したものである。中央には土器と石を利用した炉があり、四隅には柱を立てた穴がある。このような竪穴の上に茅や樹皮などで屋根を作って住居としていたと思われる。
崖下には黒目川が流れ、かっては子の神社の下に清らかな湧き水もあった。南向きで日当たりの良いこの高台は原始時代の人々にとっても生活に適した場所だったと思われる。
小山緑地保全地域
東京都は市街地化が進む中にあってこの地域の貴重な自然環境を守るため1989年に約1.7ヘクタールを小山緑地保全地域に指定した。クヌギやコナラを主体とした雑木林である。
小山台遺跡から雑木林の小道を歩き、小山緑地保全地域を一周して子の神社に出た。
〇子ノ神社
祭神:大国主命
当社は小山村の鎮守で文禄元年(1592)8月領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられる。神社名はもと「根神明神」と称したが、後世になり十二支の子を用い「子ノ神社」と変更された。
〇大円寺
天台宗で川越市の外観頂院の末寺。開山は天台二世の慈覚大師(794~864)と云われるが確証なし。もとは子ノ神社の東南の地にあったが、江戸時代中期に焼失したことから1765年に現在地に再建された。
本堂、阿弥陀堂、観音堂、山門などは再建当時のものである。
門の前には、右に石橋供養塔(1839)、左に庚申塔(1746)と馬頭観音(1838)があり、いずれも市の有形民俗文化財に指定されている。とくに馬頭観音は「いたばし五里」「八王じ五里」「江戸四谷五里」「かわごい五里」と銘文があることから五里五里馬頭と呼ばれている。
左側のピンク色の花は「河津さくら」で丁度見ごろだった。
〇下里本邑遺跡公園・遺跡館
都住宅供給公社の団地建設に伴い、1978年に確認調査を行った下里本邑遺跡調査会は、ここにある遺跡が旧石器時代から平安時代の長い間にわたる貴重な遺跡と判断した。遺跡館には発掘調査で出土した生活用具や地層が立体的に復元され展示しているが、館内に照明がなく、屋外が明るいため、中の展示物が殆ど見えなかった。せっかくの展示物なのだからもっと見やすくする工夫が必要だ。
〇下里本邑遺跡公園・昼食
遺跡の中心部分8000平方メートルを遺跡公園として保存・整備されている。
ここで昼食にしたがやや高台になっているためか、やや強く吹く風が冷たく食後早々に次の目的地に向けて出発した。
〇氷川神社
新山遺跡と屋外展示室
新山遺跡は黒目川も最上流域にある縄文時代中期末葉(5000年前)の集落跡である。下里小・中学校の建設に伴って発掘調査が行われ、大きな集落跡が確認された。この中学校の校庭には柄鏡形住居跡などが埋没保存され、東京都の史跡に指定されている。柄鏡形住居跡は柄のついた鏡に形が似ていることからそう呼ばれており縄文時代中期後半に見られる独特な住居跡である。この柄鏡形住居跡には床の一部に石が敷かれている。新山遺跡ではこの住居跡を最後にムラが途絶えている。
遺跡調査会では、約3000平行メートルを下里中学校校庭下に埋没保存し、1棟の柄鏡形住居跡を外部から見学できる屋外展示室を設けた(写真下)。
〇柳窪天神社
〇村野家住宅
江戸時代から明治期にかけての景観が残る柳窪のなかでも、市内に現存する唯一の茅葺民家である。農村風景を今に伝える貴重な文化財として、平成23年1月26日に国登録有形文化財となった。村野家住宅は個人住宅であるため普段は見学できない。
国の登録文化財として登録されたのは、
・天保9年(1838)建築の「主屋」、および明治後期建築の「離れ」
・江戸時代末期建築の「土蔵」および「穀蔵」
・明治28年(1895)建築の「新蔵」
・明治14年(1881)建築の「薬医門」および大正後期建築の「中雀門」
入母屋造りの「主屋」
薬医門(屋敷の南東部にある総欅造りの間口2.6メートルの重厚な門)
〇小平駅
村野家住宅から小平霊園を経由し小平駅へ