浜離宮散策と水上バスで隅田川を上り隅田公園の桜道を歩く

1.日  時: 平成29329日(水)
2.集合場所: 所沢駅2階改札内
3.集合時間: 8時45
4.行  程:
    855     920 931 山手線    958          10101030  
 所沢駅  ⇒  池袋駅  ⇒   新橋駅   ⇒   鉄道発祥の地 
 10 :40 12:05
 ⇒ 浜離宮恩賜庭園 
  水上バス13:00                                 14:30
 ⇒   浅草 ⇒ 隅田公園 ⇒ 待乳山聖天 ⇒ 浅草寺 ⇒ 浅草駅  

浅草駅(地下鉄銀座線)にて解散します。
5.費 用:交通費 1,944
          所沢―新橋  534
水上バス  740
浅草―所沢 670

    入園料  150  (浜離宮恩賜庭園)
6.出席者:16名

東京では1週間前に桜の開花宣言が出されたのに、その後の寒さで桜の開花が遅れている。浜離宮庭園の桜も一分咲きと云ったところであった。
昨夕の天気予報によると、今日は春らしいぽかぽか陽気の
お出かけ気候だと言っていたが、ここ浜離宮付近では海からの風もあり曇り空の寒いスタートとなった。
【浜離宮庭園内の桜】
◇旧新橋停車場
◇浜離宮恩賜庭園
海水を引き入れた潮入の池と二つの鴨場を伝える庭園です。
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重です。
承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。
◇隅田川
【前方に見えるのが中央大橋】
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門(青門)で荒川から分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合流して東京湾に注ぐ全長23.5Kmの一級河川である。
現在隅田川と呼ばれている川は、元々は入間川の下流部であり、貞享3年(1683)までは下総国と武蔵国の国境であった。
寛永6年(1629)の荒川の瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐために、明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門(赤門)から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在荒川と呼ばれている。
【築地市場】
昭和40年(1965)3月24日に出された政令によって、荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である新荒川水門(青門)より下流は、俗称であった隅田川に改称された。
江戸時代吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端(おおかわばた)と称され、今でも古典落語などでは大川が出てくる。
隅田川には、新神谷橋・新田橋・新豊橋・豊島橋・小台橋・尾久橋・尾竹橋・千住大橋(日光街道)・千住汐入大橋・水神橋・白鬚橋(明治通り)・桜橋・言問橋(水戸街道)・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋(蔵前橋通り)・両国橋(京葉道路)・新大橋(新大橋通り)・清洲橋(清洲橋通り)隅田川大橋(首都高9号)・永代橋(永代通り)・中央大橋・佃大橋・勝関橋・レインボーブリッシと次々と続く橋があるが、一つとして同じ様式やデザインはなく、それぞれが歴史と物語をもっていて個性的である。
◇隅田川に掛かる橋の歴史と特徴
①勝鬨橋
月島・佃島・石川島は明治25年(1892)築島以来、工業地帯として急速に発展してきたが、京橋方面からの交通手段としては渡し舟しかなく、主として深川方面からの明治36年(1903)に開通した相生橋[豊洲運河]によっていた。
渡しは、佃の渡し・月島の渡し・勝鬨の渡しがあり、とりわけ勝関の渡しは、明治38年(1905)、日露戦争の旅順陥落の祝賀会に際して、京橋区の有志が築地と月島を結ぶ渡船場を開設し、東京市に寄付したものである。
戦勝にちなみ「かちどき」の渡しと名付けたものであった。
渡し船ばかりでは不便であり、架橋が計画され昭和8年(1933)着工し、川口でもあり大型船の出入りもあるので、橋下を3千トン級の船でも航行可能な左右への跳橋である可動橋として架設することになり、昭和15年(1940)に竣工したものである。
当座は1日5回開いて船を通していたが、戦後は1日3回となった。
昭和22年(1947)には都電が橋を渡って月島に通じていた。
東京港も整備され、大型船の通行も少なくなり、逆に橋上の交通量が増大していったので昭和45年(1970)11月の開橋を最後に、昭和55年(1980)4月開橋廃止となった。
②永代橋
【永代橋を潜り抜け、左側に見えるのがIBMビル、その先は住友不動産リバー・ゲートビル】
元禄11年(1698)3月から7月の間に深川渡しに替えて、徳川幕府の命により創設された木製の橋である。
享保4年(1719)大破したことから、幕議では廃橋と決定したが、付近の町人達が強く存続を望み請願によって、民間維持の橋となった。
その橋の維持管理のために享保11年(1726)5月から通行人から橋銭の徴収をおこなった。
文化4年(1807)深川八幡宮の祭礼の折、橋上が雑踏し、欄干が崩壊して1,500余人の死傷者を出した。
この惨事により永代橋は本普請となり、橋銭の徴収もなくなり、文化6年(1809)に公用橋となった。
永代橋は江戸時代には隅田川最川口の橋であり、眺望・納涼の名所として賑わい、また諸国廻船発着の地として知られ、島送りの流人船もここから出帆した。
木橋最後の橋は明治7年(1874)に架けられ、明治30年(1897)には、下流約150mの現在地に位置をかえ三径間トラス連続の鉄橋となった。しかし、関東大震災で大破し、復興最後の工事として、現在の橋に架替えられた。
当時隅田川の最川口の橋となるので、「帝都の門」として、力強い雄大さを目指したものと思われる。
地盤がやわらかったので、橋台・橋脚をケーソン工法を使用して補強し、大正13年(1924)着工し、大正15年(1926)開通した。
③清洲橋
関東大震災後の復興事業で新しく作られた橋で、大正14年(1925)起工し、昭和3年(1928)に開通したものである。
江戸時代はこのあたりに三股(みつまた)といわれ月の名所でもあった。
深川の清澄町と日本橋の中洲町とを結ぶので、清州橋と命名された。
【前方にスカイツリーが見えてきた】
ドイツのライン河に架かるケルンの吊橋をモデルにしたものである。この形式の橋は世界的にもめずらしく、貴重な存在になっている。美しく、造形は女性的であるが、橋上に立つと男性的な現代感覚を感じる。
④新大橋
元禄6年(1693)徳川幕府により、浜町水戸殿上ヶ地((蔵屋敷返納)より深川元町への通行のために架けられた橋である。
橋の命名の由来は、千住大橋に対して、新大橋と名付けられたとみえてる。
当時六間堀の芭蕉庵に住まっていた芭蕉は「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」などともよんでいる。
その後、水害・火災による被害も多く、明治18年(1885)の最後の本橋による掛替えまで11回にも及んでいる。
延享頃から、永代橋と同じく橋銭(渡り賃)を徴収していたが、文化6年(1809)より橋銭の徴収をやめ、廻船問屋等が冥加として請負い、造作することとなった。明治45年(1912)上流約300mの現在地に移され、三径間ブラスト・トラス型の鉄橋となった。
大正12年(1923)の関東大震災には無傷で残り、多くの人々の命を救った。しかし、昭和49年(1974)通行量・重量に堪えられなくなり架け替えられることになり、昭和51年(1976)に竣工した。
⑤両国橋
明暦の大火に、浅草橋の見付門や隅田川で多数の犠牲者を出した惨事に鑑みて行った徳川幕府の処置として、また明地・火除地の代替地確保のための本所・深川地域の開発のためもあって、架設された橋である。
架設以前の東岸の地域は牛島の大西と呼ばれていて、牛島の渡しであった。
橋の命名の由来は、武蔵国と下総国の境の川に架かる橋だから両国橋と名付けたと云われている。
また架設年は諸説あるが寛文元年(1661)とみられる。
この橋は、非常に備えると同時に、本所開発のために架設されたものであったが、常時眺望・納涼の場所として賑わい、享保の頃から花火も行われ、両岸橋詰の広小路は屋台店、見世物小屋等が立ち並び繁昌した。とりわけ回向院の出開帳、勧進大相撲はその賑わいを増した。
その後度々の洪水・火災のため掛替えを繰り返すが、明治8年(1875)、親柱は石造・袖柱との間には煉瓦を用いる洋風な最後の本橋が架けられている。
そして、明治37年(1904)隅田川3番目の鉄橋として三径間ブラスト・トラス型、いわゆる鎧橋の鉄橋となった。その後、関東大震災により、被害を蒙り現在の橋に架け替えられた。
両国橋は、京葉道路にあり千葉方面への主要道路であるため、交通量が極めて多い。
現在の橋は、震災後の復興として、昭和7年(1932)に完成した三径間ゲルバー型鋼鉄桁橋で、完成時は、わが国最大径間のゲルバー橋で、スッキリとした弧の上に、一線が引かれたようなスマートな橋として、技術的にも評価されてきた。
また、大きな球状の石飾りのついた親柱も、大変趣があり、この橋のシンボルとなっている。
⑥蔵前橋
関東大震災後の復興計画によって新設された橋で、大正13年(1924)に起工して昭和2年(1927)に開通した橋である。
架橋地点の地質が砂利砂と比較的良好なので、上路型アーチ橋を採用された。
墨田区側に河岸道路があるので、鉄筋コンクリートの跨道橋を設け、四連のアーチに設計してあり、橋台上部の路上にバルコニーを設けるなどの特徴を持っている。
橋名は、架設地の浅草御蔵・蔵前の歴史的ゆかりからとっている。
⑦厩 橋
厩橋の創設は、明治7年(1874)開通の本橋であるが、それ以前はここに、広重の錦絵にも描かれている「御厩(おんまい)の渡し」があった。
明治5年(1872)花見客の人出で渡し舟の転覆事故があったりして架橋の話が煮詰まり、民間人が架して、橋銭を徴収していた。
明治20年(1887)、維持管理の経費負担から東京府に移管され、同時に通行は無料となった。
厩の名は、浅草の御米蔵に付属する御厩がかってこの地にあったことに由来しており、御厩河岸、御厩の渡しなどと地名としても用いられていた。
木橋の老築化に伴い、明治26年(1893)鉄製の左右より中央径のみが高山三径のいわゆる鎧橋でなるトラス橋に改築された。
関東大震災で木製部分の橋底が焼失し、大破したため、復興計画により現在の橋に改架された。
三径間の下路式アーチ橋で、緑色の同じ形のアーチが三連並ぶ優美な三曲線で構成されている。
橋詰の石の大きなベンチは風格があり保存したいものである。
大正15年(1926)起工し、昭和4年(1929)竣工したものである。
⑧駒形橋
ここには江戸時代も古くから駒形の渡しがあり、中断期もあったが、橋の竣工する昭和2年(1927)まで続いたものである。だから、橋名も駒形橋となった。その元は、河畔にある駒方堂に由来する。
架橋は、関東大震災後の復興計画により、大正13年(1924)に起工して、昭和2年(1927)に竣工、開通した。
中央径間が中路式で、側径間が上路式の三径間ソリッドリブ・2ヒンジアーチの橋で、遠く船上から見るとアーチの変化も巧みで、均衡のとれた美しい橋である。
橋上にあっても、とりわけ親柱に替わるようなシンボル灯柱が、アールデコの美しさを漂わせている。
近年の「隅田川著名橋整備事業」による補修でも、ほとんど復元整備に徹し、隅田川に架ける当初の心を伝える橋である。
⑨吾妻橋
江戸時代隅田川に架けられた最後の橋である。
ここは古くから、水戸・佐倉に通じる本所中之郷竹町と浅草花川戸六地蔵河岸を結ぶ「竹町の渡し」があった。
明和8年(1771)徳川幕府に浅草の町人から新規架橋の願い出があって、安永3年(1774)橋名を宮戸橋と名付けたい旨の願いが出されたが、工事完了後に改めて大川橋と唱えることで願いが出された。
しかし、架橋工事中から「東橋」「吾妻橋」と云う者が多く、隅田川を流れる場所によって、浅草を流れると浅草川、三社権現を主としてみるときは宮戸川と呼んだりした。
また、親しんで一般には大川と呼んだもので、「大川橋」ということも、そこから起因している。
吾妻の名は、日本武尊命の東征伝説の「吾嬬はや・・・・」からでたもので、東国・関東地方の総称となったものであるが、一般的な江戸の東の方という意味を吾妻の字にかけて用いているもの、及び、北十間川の福神橋際にある吾嬬神社への道すじという意味あいが重なって用いられたように思える。
明治9年(1876)西洋式本橋に改架の折、正式名称として「吾妻橋」となった。
流失、焼失による架替えや修理は数多いが、明治18年(1885)の洪水で流失した。
そこで東京名所の多<の錦絵にもなった隅田川で初の鉄製鎧橋であるトラス橋が明治20年(1887)石川島造船所の施行によって完成した。
現在の橋は、関東大震災の復興計画によるもので、昭和4年(1929)に着工して昭和5年(1930)竣工予定が、昭和6年(1931)にずれ込んで完成した。
【金色に輝くこのビルに移る
スカイツリーを見ると幸せが訪れるとか?】
外観は蔵前橋と同様であるが、アーチと路面との支柱が、吾妻橋の方が繊細に造られている。
平成5年(1993)完成した整備工事により、歩道が拡張され、高欄や灯柱等が変更された。
また、吾妻橋の赤は浅草を意識した色とかといわれていて、広重をはじめ多くの錦絵師に描かれている。
⑩言問橋
関東大震災の復興計画として架設された橋で大正14年(1925)起工し昭和3年(1928)開通した。
墨田公園の中央を結ぶため、上流・下流の視界をそぐわないように、軽快なゲルバ一桁橋が採用された。
三径間のカンチレバー形式の箱飯桁で、両岸のアプローチ部分は隅田川公園をまたぐ飯桁とコンクリート橋でできている。開放感のある広々とした橋である。
「鋼桁全長235m余で、東京市内に於ける一番長い橋であり、又、比型の橋梁としては、我国最大のものである」と製作した横河橋梁製作所の完成記念誌に記されている。
橋の名は、在原業平の「伊勢物語」東下りの隅田川で詠める「名にしおば いざこと問はむ都鳥 わが思う人は ありや無しやと」の歌によるもので、付近の業平塚にちなむ業平町があったゆえんであろう。
昭和20年(1945)3月9日の空襲により、橋上で折り重なるように幾多の人々が焼死されている記憶は忘れられない。縁石の御影石のほとんどが欠けていた。
灯柱は戦後変更されたものであるが、違和感のない佳作である。
⑪白鬚橋
この地は古くは橋場と称し、「橋場の渡し」があった。
承和2年(835)の太政官符に、武蔵・下総両国の境の住田河に隅田の渡しと想定されている。
また、伊勢物語の在原業平の渡ったのもこの渡しであったといわれる。
源頼朝が再挙の兵をあげ、隅田川の歴史にあらわれる最所の橋である。浮橋を架けたと伝えられるところで、そのことは橋場の地名としても残っている。(石浜神社)
奥州街道が千住を本道とし、水戸・佐倉への道も両国橋を経るようになると、この渡しも賑わいをなくしていった。
大正2年(1 9 1 3)、吾妻橋から千住大橋にいたる間に、橋がないのは不利、不便であるとの理由から、大正3年(1914)に、寺島と橋場の間に本橋が架設された。
白鬚いう橋名は、墨田堤(墨田区)沿いの寺島の古社、白鬚神社から由来している。
関東大震災の被害にあったわけではないが、東京府の都市計画事業により環状線道路(現在の明治通り)の隅田川を横断する個所ということで鉄橋に架換えることとし、昭和3年(1928)起工し、昭和6年(1931)竣工した。
アーチ部分がトラスで組み上がっているところに特徴があり、遠くからは恐竜にも似て親しみのもてる橋である。
⑫千住大橋
千住大橋は、徳川家康が江戸に入府して4年目の文禄3年(1594)に架けられたもので、隅田川(当時この辺は荒川と呼ばれていた)の橋の中では一番最初の橋であり、かつ今までにない長く大規模な、いわゆる大橋であった。
奥州街道は、古くは隅田川の渡しを通っていたが、一方では最初の大橋が架けられた位置より上流のところに、裸になって徒歩で渡る渡津があり、「渡裸川の渡し」と呼んでいた。
北国への道すじとして大橋を架けると、奥州・日光・水戸・三街道の江戸口としての要所となり、町並も栄え、橋は千住の宿を南北に結ぶようになっていった。
江戸時代、30余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋として、その利用を発揮した。
橋名は、単に「大橋」と呼んでいたものであるが、下流に両国橋など長大の橋が出来るに及び、「千住の大橋」とか「千住大橋」と呼ぶようになった。
洪水などによる流失も数少なく、改築、修理は度々おこなわれてきて、江戸300年を生きぬいてきたといえる。
明治18年(1885)の大洪水による流失後、再び木橋が架けられ、大正4年(1915)、通行量の激しさにくらべ、木橋が腐朽し危険があること、木橋のため相当の勾配で馬車の通行に余分の労力を要し、不便なことから1日も早く
鉄橋にして欲しいという声が高まったので、関東大震災後の東京府の都市計画をまって、鉄橋に架替えられた。
現在は二橋あり、現旧橋は昭和2年(1927)に完成した、単径間のブレーストリブ・タイドアーチ橋で、白鬚橋との違いでいえば、アーチの突桁部のないことで、共にアーチ部分がトラスで組まれたアーチである。
千住大橋は日光街道(国道4号線)にあるため、交通量が増大し、昭和48年(1973)下流側に新橋である三径間連続桁橋を増設し、上り・下りの車線を分けている。
元禄2年(1689)松尾芭蕉は深川の採茶庵を出立し、舟で隅田川を上り千住に上陸して「奥の細道」の行脚に旅たった。
千住大橋の北詰・大橋公園に「おくのほそ道矢立初の碑」が立っていて地域の人々は大橋と同様に芭蕉を身近に感じていることを証言している。(参照:墨田区立緑図書館所蔵「隅田川の橋」)
◇隅田公園
ここも、桜は一分咲き程度でした。
◇待乳山聖天(まつちやましょうてん)
待乳山本龍院という。縁起によると推古朝9年(西暦601年)かんばつに苦しむ民を十一面観音が大聖歓喜尊天(だいしょうかんきそんてん)となって救ったことに始まるという。
○健康を表す大根と商売繁盛の巾着がこの寺のシンボル
〇正月7日には大根祭りが行なわれている

◇池波正太郎生誕の地
待乳山聖天の門の脇に池波正太郎誕生の地という碑が立っていた。

ここから浅草六区を通って浅草寺に向かい地下鉄浅草駅に出る予定であった。
しかし、国際通り付近で女性陣の中に足が痛いという人や、少し休んで行きたいという人が現れた。中には、もう歩きたくないとかコーヒーを飲みたいという人まで出てきたので、希望者数名で、取り合えずコーヒーを飲んで行くことにし、目の前の喫茶店に入った。
浅草らしいレトロ調な喫茶店だった。
一休みした後「つくばエキスプレス」を利用し秋葉原を経由し所沢に出た。

【担当:1班】